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山田玲司のヤングサンデー 第196号 2018/7/23

ブエノス・アイレス

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19世紀、スペインから独立したアルゼンチンには、ヨーロッパ各国から移民が押し寄せた。

それも裕福な人々ではなく、新天地に夢を抱いた開拓者や、なんらかの事情で祖国にいられなくなった貧民、罪人、娼婦など、「棄民」とも呼ばれる人たちなどが中心となって。


旅客機のない時代、長い船旅を経て彼らが降り立ったのは、大河・ラ・プラタ河沿いの何もなかった平原に、植民都市として作られた当時人口5万人ほどの港町…。

彼らは独立政府と協力して、町を碁盤の目に整備し、南米にありながら最もヨーロッパに近いと言われる美しい都市を作り上げる。

その街こそ、それぞれの祖国へのノスタルジーとルサンチマンをカタチにした“南米のパリ”、アルゼンチンの首都、ブエノス・アイレスだった。


「buenos(良い)aires(空気、風)」。

港町らしく、船乗りの望む「順風」がそのまま街の名前になったこの南米のパリの象徴が「7月9日大通り」。

都市整備計画の一環として企画され、計画からおよそ100年をかけて建設されたブエノス・アイレスの基幹道路だ。

片道なんと8車線!

道幅最大110メートル!

もちろんこれは世界最大の道路で、反対側に渡るのに信号が2、3回は変わってしまい、渡りきれず横断歩道の踊り場で立ち尽くす日常風景はもはやパリでもマドリッドでもない。

この「7月9日」とは、1816年のアルゼンチン独立記念日のこと。

そう、この「7月9日大通り」とはブエノス・アイレスのみならず、アルゼンチンという国のシンボルなのである。


2014年7月13日の夜、俺はこの通りにいた。

ブエノス・アイレスに住むすべての人が集まっていたんじゃないかってくらいの凄まじき大群衆の中の1人として。



その夜の熱狂は世界中のニュースになっていたので覚えている方がいるかもしれない。

そのほんの数時間前、W杯ブラジル大会の決勝戦、延長戦の末にアルゼンチンは惜しくもドイツに敗れてしまっていた。

悲しみに暮れるとはまさにこのことというくらい落胆と放心の涙を流していたアルヘンティーナたちだったが、試合後、1時間ほどすると誰に導かれるわけもなく立ち上がり、歩き出す。

パブリックビューイングで試合を観ていた人から、スポーツバーやカフェで応援していた人、家で仲間や家族と見守っていた人など、まるでブエノス・アイレス中の人達が、アルゼンチン代表の応援歌を歌いながら一斉に動き出したのだ。


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