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本日のメルマガは、國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学 増補新版』の再版記念! 前回の刊行時に行なわれた國分先生と宇野常寛の対談を掲載します。『暇倫』で提示された〈消費〉と〈浪費〉という概念、そして『リトル・ピープルの時代』で示された〈ハッキング〉。その思想的ポテンシャルをいま改めて考えます。
▼3/7発売予定、13000字の新規加筆も!
「わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。
生きることはバラで飾られねばならない」
明るく潑剌と、人生の冒険に乗りだすための勇気を!
新版に寄せた渾身の論考「傷と運命」(13,000字)を付す。
序章 「好きなこと」とは何か?
第一章 暇と退屈の原理論──ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?
第二章 暇と退屈の系譜学──人間はいつから退屈しているのか?
第三章 暇と退屈の経済史──なぜ“ひまじん"が尊敬されてきたのか?
第四章 暇と退屈の疎外論──贅沢とは何か?
第五章 暇と退屈の哲学──そもそも退屈とは何か?
第六章 暇と退屈の人間学──トカゲの世界をのぞくことは可能か?
第七章 暇と退屈の倫理学──決断することは人間の証しか?
付録 傷と運命──『暇と退屈の倫理学』新版によせて
(Amazon 内容紹介より)
▼そして……大事なお知らせ
大好評をいただいている人生相談連載「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」ですが、國分先生がイギリスでの在外研究準備のためしばらくお休みとなります。
ですが……人々の悩みがより深まったとき、哲学の先生は再び我々の前に姿を現すであろう――。皆様、悩みを深めて連載再開をお待ちください!
「哲学の先生と人生の話をしよう」これまでの連載はこちらのリンクから。
ポップカルチャーを通じて「想像力」の変遷を分析し、2011年『リトル・ピープルの時代』を出版された批評家の宇野常寛さんと、哲学者として「どう楽しむか? どう生きるか?」をテーマに同年『暇と退屈の倫理学』を出版された國分功一郎さん。震災以後、揺らぐ日本社会で生きるヒントを、ポップカルチャー、ネットワーク、哲学、そして政治と文学の中に、おふたりはどう見出そうとしているのでしょうか。
◎構成:井上佳世
■ 人間と世界構造の間にあるもの
國分 僕は宇野さんの著書『ゼロ年代の想像力』(以下『ゼロ想』)を読んで、これは本当にすごいと思いました。”『ゼロ想』ショック”と呼べるほどのインパクトを受けたんですね。
90年代以降、陳腐な絶望意識と自己意識みたいなものがずっと日本の思潮を覆っていた。批評家たちもそれに対する有効な対案を出せず、そのすっきりしない状況の中でだましだましやっていくしかないというような雰囲気になっていた。ところが、その中に宇野さんが颯爽と現れて、「いや、ゼロ年代にはこんなに新しい想像力が出現しているんだ」ということを、ものすごい量の情報と鋭利な分析で教えてくれたわけです。しかも、サブカルの領域を通じて、でした。
サブカルに関する批評というのは、「自分が好きなものをみんなに認めてもらいたい」とか、「自分が好きな作品はすごいんだ」といった自己承認欲求に貫かれたものばかりで、僕はそれが全然つまらなかった。でも、宇野さんの『ゼロ想』は、90年代、ゼロ年代のカルチャーを主な対象としつつも、それ以前を、もっと言えば戦後日本の歴史みたいなものを背後に感じさせる書き方でした。いわば、自分たちが今どこにいるのかを伝えようとする歴史家意識みたいなものが感じられて、そこにすごく惹かれたんです。
宇野 なぜあの本のタイトルに「想像力」とつけているかというと、こういうことなんです。いわゆるポストモダン的なアイデンティティ不安や公共性の定義が難しくなる問題というのは、旧い言葉を使えば「政治と文学」の関係、つまり世界と個人を結ぶ回路を従来の言葉では記述できなくなったことだと言い換えることができる。大きな物語こそがまさに近代的な政治と文学を関係づけるものだったのだから、それが失効した後に出現するものは何だろうか、と。それを考えるために必要なもの、ということで「想像力」という言葉を当てているんです。
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落合陽一×宇野常寛「〈映像の世紀〉の終わりに――視覚イメージのゆくえ」(前編) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.274 ☆
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『ひぐらしのなく頃に』が到達したところ――「共同性」と「公共性」の相克の果てに(中川大地) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.276 ☆
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