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パラリンピアンはインターフェイスである
――パラリンピックの歴史と現状
(浅生鴨)
【PLANETS vol.9先出し配信】
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2015.1.27 vol.249
http://wakusei2nd.com

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いよいよ1/31(土)に発売となる「PLANETS vol.9 東京2020 オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト」。ほぼ惑では一足早く本誌の記事を先行配信していきます! 初回は浅生鴨さんの解説による「パラリンピックの歴史と現状」です。
「福祉」から「競技スポーツ」へと次第に変貌を遂げ、ますますオリンピックとの違いが失われつつある現代のパラリンピック。こうした障害者スポーツの進化が、今まで私たちが自明のものとしてきた「人間観」や「公平性」の概念を揺るがしつつある現状をリポートします。


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▲実際の「PLANETS vol.9」の誌面から。

 世界最高峰の障害者スポーツ大会、パラリンピック。治療の一環、あるいは社会復帰のための活動として、その歴史を刻み始めたパラリンピックは、回を重ねながら「競技スポーツ」として進化を遂げてきた。そして、ここ数年の義肢装具の飛躍的な進歩によって、パラリンピックのあり方そのものが変わろうとしている。そこで競われるべきは鍛え抜かれた身体なのか、装具の性能技術なのか? パラリンピアンにつきつけられる問題について、我々もただの“観客”ではいられない。その先を見据えるために、本稿ではパラリンピックの歴史をひも解いていく。

▼執筆者プロフィール
浅生鴨〈あそう・かも〉
作家・クリエイティブ・ディレクター。名前は「あ、そうかも」という口癖が由来のダジャレ。著書に『中の人などいない@NHK_PRのツイートはなぜユルい?』NHK_PR1号名義(新潮社)、「エビくん『」日本文藝家協会・文学2014』収録(講談社)など。『yomyom』(新潮社)で「終焉のアグニオン」を連載中。@aso_kamo


 現在の日本で、パラリンピックを全く知らないという人は、ほとんどいないだろう。あえて説明するなら、4年に一度、オリンピックの終わった後に開催される障害者のスポーツ大会だと言えば、たぶん、誰もがすぐにわかるはずだ。2012年に開催されたロンドン大会には、164の国と地域から、およそ4300人もの選手が参加。参加者数だけでなく、競技レベルの高さからも、パラリンピックはまちがいなく世界最高峰の障害者スポーツ大会だ。
 とは言うものの、日本では長い間、障害者によるスポーツは福祉政策の対象として扱われてきたわけで、今でもそう考えている人は、案外と多い。走り幅跳びの佐藤真海選手が、東京オリンピック・パラリンピック招致活動の最終プレゼンテーションで心に残るスピーチをしたことから、今はパラリンピックにも少しは関心が集まっているようだし、単なる社会参加やリハビリテーションを目的としたものじゃなく、トップアスリートたちによる本格競技スポーツなのだという考え方も広まり始めてはいるものの、それでも、まだ多くの人には、障害者が足りない何かを補いながら一生懸命にがんばっているスポーツなんだよね、障害者にしてはなかなかやるよね、といった程度の認識しかされていないのが現状だ。実際、テレビ放送の視聴率はゼロに近い数字だし、放送してもほとんど反響はないというのが現実で、まだまだ純粋な競技スポーツとして認めてもらえているとは言いづらいところがある。
 確かにパラリンピックは医療や社会福祉を目的として始まったものだし、今でもそういった側面がないわけじゃない。それでも、およそ70年近くの間に、多くの関係者が尽力し、少しずつ競技スポーツとしての地位を確立してきたのだ。本稿では、そうしたパラリンピックの歴史をおさらいしておこうと思う。


障害者スポーツ大会の成立

 第1回パラリンピック大会とされているものは、今から55年前、近代オリンピックの開始から半世紀ほど遅れた1960年に開かれた。これは、もともとイギリスのストーク・マンデビル病院の医師、ルードヴィッヒ・グッドマンが、戦争で脊髄などを損傷した兵士たちのために開催したスポーツ大会から始まっている。もちろん、ストーク・マンデビル病院よりもずっと以前から、障害者がスポーツをすることはあった。でも、それはやっぱり社会復帰や治療を目的にしているものが中心で、19世紀後半になるまでは、純粋な競技スポーツとして扱われたものは、どうやらほとんどなかったようだ。
 本格的な障害者スポーツ競技の出発点は、20世紀初めのドイツ。聴覚障害者のためのスポーツ団体が創立、以降、ヨーロッパの各国でも障害者によるスポーツクラブや競技団体が数多く作られるようになる。1924年には、現在のデフリンピックの基になった国際ろう者スポーツ競技大会がパリで開かれるなど、国際的な大会も開催されている。
 そして、第二次世界大戦後の1948年7月28日、前述のストーク・マンデビル病院で「手術よりスポーツ」という理念の基に、患者たちのためのスポーツ大会が開かれた【写真1】。実は、この翌日にロンドンではオリンピックの開会式が行われている。わざわざこの日に大会を企画したグッドマン医師は、おそらくオリンピックのことを意識していたのだろう。「失われたものを数えるな。残っているものを最大限に生かせ」という言葉を残したグッドマン医師は、後に障害者スポーツの父と呼ばれるようになる。

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【写真1】1948年にストーク・マンデビル病院で開かれた車椅子アーチェリー大会

 この後、ストーク・マンデビル病院のスポーツ大会は毎年開かれ続けるが、1952年にオランダの選手たちが参加したことから、この年の大会を第1回国際ストーク・マンデビル大会と位置づけることになった。記録によれば、この時には、およそ130の選手が、6種目を競ったようだ。
 ストーク・マンデビル大会は回を重ねるごとに参加する国が増え、1960年にISMGC(国際ストーク・マンデビル大会委員会)が創設された。
 ところが、ストーク・マンデビル大会は車椅子を使用している障害者だけのもので、それ以外の障害者は参加できなかった。そこで1961年に、他の障害者スポーツのための国際機関の設立が準備され、1964年にISOD(国際身体障害者スポーツ機構)が創られた。車椅子を使うか使わないかによって、二つの国際的な障害者スポーツ機関が存在することになったのだ。
 ISMGCは、毎年開かれる大会のうち、オリンピックのある年だけはオリンピックの開催国でストーク・マンデビル大会を開こうという方針を定めた。この方針に則り、1960年のオリンピック開催国イタリアのローマで、第9回国際ストーク・マンデビル大会が開かれた。この大会に参加したのは23か国からの選手、およそ400人だとされている。
 このローマ大会が、後に第1回パラリンピックとされるのだが、当然ながらこの大会は、車椅子を使用している障害者のためだけのものだった。


東京大会から始まった「パラリンピック」

 だから、そういう意味では1964年の東京大会が、本質的なパラリンピックの始まりだったと言えるのかも知れない【写真2】。

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【写真2】1964年パラリンピック東京大会のポスター
(写真提供/日本障がい者スポーツ協会)