張 『機動戦士ガンダムUC』(以下、『UC』)、おもしろくなかったわけではないのですが、はっきり言ってしまうとこれまでのガンダムシリーズの二次創作にすぎないというか、結局30年経っても富野由悠季さんの引力から逃れられていない、というのが全体の感想です。私は正直にいえばそこまでガンダムにすごく詳しいわけではないので、今回この対談の前に、香港のガンダムファンコミュニティで一番有名で”香港のシャア”いう異名も持つショーイ・リョーン(梁栄忠)さんという方にも意見を聞いたのですが、彼も同じ感想でした。彼は「富野ガンダムと比べて新しい観点があるかどうか」という評価基準なのですが、その点で結局『UC』は富野ガンダムを超えることができずに、ガンプラの宣伝アニメにしかなれなかったのではないか、と。そうした発展性の無さがはっきりわかるのは、戦闘シーンと、誰かしらおじさんが主人公のバナージ・リンクス(※1)に説教をするシーンを交代でやっているところですよね。全7話で、毎回同じようにその2つの場面を繰り返し続けるという、ある意味新しい(笑)様式美になってしまっていた。
サブカルチャーだから描ける現実とは?――香港の社会学者・張彧暋と宇野常寛が語る『機動戦士ガンダムUC』 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.170 ☆
サブカルチャーだから描ける現実とは?
――香港の社会学者・張彧暋と
宇野常寛が語る『機動戦士ガンダムUC』
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.10.2 vol.170
本日のほぼ惑は、香港の社会学者・張イクマンさんと宇野常寛の、『機動戦士ガンダムUC(ユニコーン)』についての対談をお届けします。"富野殺し"を謳ったUCは本当にそれを実行できたのか。香港の社会学者と宇野常寛が「政治」の側面から読み解きます。
初出:サイゾー2014年9月号
▼プロフィール
張 彧暋(チョー・イクマン)
1977年、香港生まれ。香港中文大学社会学研究科卒、博士(社会学)。同大学社会学科講師。専門は歴史社会学と文化社会学。香港最初の日本サブカル同人評論誌『Platform』の編集長を務める。
◎構成:佐藤大志
■40代男性の即物的欲望しか描けない"ロボットアニメ"の残念さ
張 『機動戦士ガンダムUC』(以下、『UC』)、おもしろくなかったわけではないのですが、はっきり言ってしまうとこれまでのガンダムシリーズの二次創作にすぎないというか、結局30年経っても富野由悠季さんの引力から逃れられていない、というのが全体の感想です。私は正直にいえばそこまでガンダムにすごく詳しいわけではないので、今回この対談の前に、香港のガンダムファンコミュニティで一番有名で”香港のシャア”いう異名も持つショーイ・リョーン(梁栄忠)さんという方にも意見を聞いたのですが、彼も同じ感想でした。彼は「富野ガンダムと比べて新しい観点があるかどうか」という評価基準なのですが、その点で結局『UC』は富野ガンダムを超えることができずに、ガンプラの宣伝アニメにしかなれなかったのではないか、と。そうした発展性の無さがはっきりわかるのは、戦闘シーンと、誰かしらおじさんが主人公のバナージ・リンクス(※1)に説教をするシーンを交代でやっているところですよね。全7話で、毎回同じようにその2つの場面を繰り返し続けるという、ある意味新しい(笑)様式美になってしまっていた。
張 『機動戦士ガンダムUC』(以下、『UC』)、おもしろくなかったわけではないのですが、はっきり言ってしまうとこれまでのガンダムシリーズの二次創作にすぎないというか、結局30年経っても富野由悠季さんの引力から逃れられていない、というのが全体の感想です。私は正直にいえばそこまでガンダムにすごく詳しいわけではないので、今回この対談の前に、香港のガンダムファンコミュニティで一番有名で”香港のシャア”いう異名も持つショーイ・リョーン(梁栄忠)さんという方にも意見を聞いたのですが、彼も同じ感想でした。彼は「富野ガンダムと比べて新しい観点があるかどうか」という評価基準なのですが、その点で結局『UC』は富野ガンダムを超えることができずに、ガンプラの宣伝アニメにしかなれなかったのではないか、と。そうした発展性の無さがはっきりわかるのは、戦闘シーンと、誰かしらおじさんが主人公のバナージ・リンクス(※1)に説教をするシーンを交代でやっているところですよね。全7話で、毎回同じようにその2つの場面を繰り返し続けるという、ある意味新しい(笑)様式美になってしまっていた。
(※1)バナージ・リンクス …私生児として育つも16歳のときに偶然謎の少女オードリー(=ミネバ)と出会い、実は自身の父が政財界に君臨するビスト財団の当主であることを知る。父が死に際に託したユニコーンガンダムに搭乗し、オードリーと共にラプラスの箱の謎をめぐる戦いに足を踏み入れてゆく。
宇野 僕はひたすらその説教が続くところにうんざりした。あの中で言われている説教は一行で要約できて、「世の中は複雑なんだから、多面的なものの見方をしていこう」程度のことしか言ってないんだよ。普通に社会に出て働いたりしていれば自然に学べることを、なんでわざわざロボットアニメで言わないといけないんだ、と思う。あの説教からは、バブルには間に合わなかったけどネット以降の本当の”ニュータイプ”の世界にも間に合わなかった、中途半端な自意識を抱えてうじうじしている40代くらいのオッサンたちの無駄に高いプライドと自信のなさだけが伝わってくる。説教の部分を全部取り払っても『UC』のストーリーって成り立つでしょう。わざわざ限られた分数を割いて、絵を停滞させてまで原作者である福井晴敏が説教にこだわったというのは、ある種の戦後日本人男性のメンタリティの弱さがここまで及んでしまっているという症例としておもしろかったくらいだよ。
張 宇野さんは「ダ・ヴィンチ」(KADOKAWA)の連載で『UC』について、フル・フロンタル(※2)の立場をプラグマティズムとし、バナージ・リンクスの側を陰謀論者だという図式で論じられてましたね。私は国際関係論から考えると別の見方もできると思っていて、あれはリアリストと社会構築主義者の図式ともいえるんじゃないか。フル・フロンタルのほうが、権力と金で交渉を行う現実主義者で、バナージはアイデアと理念を重視する社会構築主義者。
(※2)フル・フロンタル…ネオ・ジオン軍残党「袖付き」の首魁である大佐。「赤い彗星の再来」と呼ばれ、素顔や声もシャアとよく似ている。実際は、もともとシャアに似せて作られた人工ニュータイプ(強化人間)。ラプラスの箱を奪取することで連邦と取り引きをし、ジオンの自治権保持を延長させることで「コロニー共栄圏」構想を実現させようとする。
宇野 僕はフル・フロンタルはすごくいいと思う。なぜなら彼はリアリストでありながら、ちゃんとロマンを持っているから。一方でバナージたちは、「ラプラスの箱」に隠されたこの世界の秘密が暴露されれば世界は変革できると考えていて、これは完全な陰謀史観だよ。そこには日本の戦後民主主義のダメな部分が表れてしまっていると思う。ネット右翼や”放射脳”もそうだけど、イデオロギー回帰が陰謀論としか結びつかなくなってしまっているのが戦後70年のこの国の帰結なんだよ。そんなバナージ側が善玉であって、実現可能な達成を積み重ねていくことで理想を実現させようというフル・フロンタルが悪役になってしまうというのはすごく象徴的だと思う。
張 それが日本の戦後図式だというのはわかるんだけど、たとえば私のような香港の人間が見たときにはまた少し受け取り方が違ってくる。それは「ガンダムがどうやって国境を超えるか」という問題でもあるんですが、香港は1997年に中国の一部になって、自治都市として成立した。つまり、宇宙植民地サイドです。そして中国が地球連邦にあたる。そうした状況で香港人が『UC』を観ると、現在進行中の香港を含めた東アジア政治そのままの状況に見えると思う。要するに、工業化に成功して経済的発展も遂げつつある中国が東アジアにその力を拡大している真っ最中に、香港あるいは台湾、そして日本がどうやって対応していくのか? という読み方です。そこでは、現実主義者であるフル・フロンタルのような、可能な限りの交渉カードを持って向こうと妥協していくという対話のやり方と、バナージのようなイチかバチか革命の可能性に賭けるというやり方が交互に繰り返されている。80年代以降の日本の戦後想像力で『UC』を読みとくと、宇野さんの言うようにプラグマティズムVS陰謀論という読み方になるのは賛成です。でももう少し広げて、ガンダムの東アジアにおける拡散の仕方を考えると、そういう捉え方もあると思います。
宇野 それはでも、『進撃の巨人』(講談社)が香港では「巨人=中国」「人類=香港」という比喩として捉えられたといわれているのと同じで、日本ではそんな文脈はないんですよ。むしろ日本においては、たとえば戦後民主主義的な反戦もの以外大っぴらに戦争映画を作ることができない戦後の状況があって、サブカルチャーの中に歴史や政治というテーマが忍ばざるを得なかった経緯がある。そのせいで直接的な政治的課題から想像力を育むことができなくなってしまって、ポリティカルフィクションは後退してしまった。そのことと、実際にイデオロギーや政治に対してビジョンを持とうとしたときにどうしても陰謀論が召喚されてしまう問題は、つながっていると思う。そうした部分を見て取ってしまって、『UC』は日本のダメなところの結晶なんだなと思ってしまう。
■「富野殺し」どころか表現の乏しさが際立った
張 私がもうひとつ気になったのは、血のつながりを重視しすぎている点ですね。高貴な血でつながったブルーブラッドというのは、すごく前近代的な発想だと思う。
宇野 富野由悠季が80年代当時に描いていたものにはいくつかの道があって、ひとつは当時の現実に対して、前近代的なある種の”ノーブルな血”によって越えていこうというもの。
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