歴史観なき時代に、
「他者を排除しない物語」をどう語るのか?
――『ナショナリズムの現在』
萱野稔人×小林よしのり×朴順梨×與那覇潤×宇野常寛
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.8.15 vol.137
【夏休み特別増刊号】
本日の「ほぼ惑」は夏休み特別増刊号として、2本立てで配信します。2本目の記事は、発売中の電子書籍『ナショナリズムの現在』からハイライトシーンをお届け。現代日本のナショナリズムの高揚に「承認」の不足を見る朴順梨さんと宇野常寛の問いかけに、よしりん先生、萱野稔人さん、與那覇潤さんはどう答えていったのでしょうか――?
【座談会出席者】
漫画家 小林よしのり
哲学者 萱野稔人
ライター 朴順梨
日本史研究者 與那覇潤
評論家・PLANETS編集長 宇野常寛
(敬称略)
■歴史観が機能していない状態で、「物語」に何が語れるのか?
朴 私が韓国の人たちと話をしていて感じることがあるんです。今おっしゃっていた通り、「慰安婦問題は日韓基本条約で解決済み」というのはあるんですけれど、そこで「もう解決してるだろ? うるさいんだよ」と言って突っぱねてしまうのではなくて、まず「話を聞いて欲しい」ということを取材をしていくなかで韓国の人から言われたことがります。「あなた個人に謝って欲しいわけじゃない」ということも言われましたし。
宇野 要するにここで問題にされているのはイデオロギーじゃなくて、単に「話を聞いて欲しい」「居場所が欲しい」といった〈承認〉の問題に還元されているということなんでしょうか。
朴 ちっちゃい話かもしれませんけどね(苦笑)。
宇野 そう、確かにちっちゃい話だけど、そういった問題が堆積して大きくなっている。そこで歴史学者である與那覇さんに聞いてみたいことがあるんです。
歴史学者・與那覇潤は、今の「歴史観」が機能しない状態を受け入れるのか、それとも、それに異を唱えて「『歴史観=物語』を語ることは必要なんだ」と言うのか。そして「歴史観=物語を語ることが必要なんだ」という立場に立った場合、それは道徳主義的な立場からなのか、それとも萱野さんが言うような機能主義的な立場からなのか? そのあたりを伺いたいです。
與那覇 歴史学というのは規範ではなく現実を扱う学問だから、「歴史学者として」道徳主義的な主張をするということは難しいですね。ただ、僕は歴史観とか物語というとき、その担い手が歴史学者や歴史教科書に限られるとは、思っていないんです。
過去という時代の異質さを見つめた上で、そこに感情移入できるルートを開いてくれるものであれば、政治論争の泥沼に突っ込んでしまったのとは別種の「歴史観=物語」の媒体を模索していいと思うんですよ。たとえば日韓で歴史教科書をひとつにすることは無理だけど、日本と韓国の人の心をともに捉えることができるような「物語」を、歴史を素材に作ることはできるのかもしれない。慰安婦問題について「賠償しろ」「いや、これ以上無理だ」という話とは別に、どちらの国民も共感しうる物語を作って、それが『永遠の0』並みにヒットするとか、そういう路線を考えないといけないんじゃないかな。
小林 つかこうへいが慰安婦を題材にした小説(『満洲駅伝』)を書いていて、それは日韓どちらかを責め立てるようなものではなかったんだけど、全然知られてないんだよね。
宇野 小林さんは、まさに「つくる会」のときから「『物語』を語れ」というフレーズを繰り返してきて、当時の宮台真司や宮崎哲弥さんのような、いわゆるポストモダン派(「大きな物語」否定)と論争していましたよね。当時の議論でどちらが勝ったかとか、そういったこととは別次元の問題として、宮台さんや宮崎さんが言ったように今は「物語=歴史」が機能しなくなってしまっている。それで、今日も話したような、排外的なナショナリズムやネトウヨというものが蔓延している。
そういう今の状況に対して、物語作家としての小林よしのりは「物語」というものを、今、どう機能させようとしているのかを訊いてみたいんです。
小林 そうね……今わしが考えているのは、明治以降に日本が近代化していくとき、政治家なり民間人なりがどんな立場を選び取っていったかということなんだ。今の人たちは「司馬史観」に影響されていて、「司馬史観から見た日本の近代史」が語られている状態になってしまっていると思っとるんだけど、それとは違う側面から日本の近代史を語りたいんだよな。
わしは今、『大東亜論』のシリーズを始めて、頭山満の玄洋社に代表されるような、白人列強に対するアジア人の連帯を説いた「アジア主義」の話を描いているんだ。この「アジア主義」がなぜ機能しなくなっていったのか、ということまで含めて、もういちど歴史を埋め合わせていかないといけないと思って描いてるわけだよ。
宇野 つまり、むき出しの現実に人々がぶつかっている今の状況はよくない。かといって戦後民主主義という物語はもう賞味期限が切れてしまって嘘くささしか残っていない。もちろん安倍政権の「美しい国を取り戻す」なんてのは不勉強で話にならない。だからそれらに対して、もっと長い射程を持った「物語」を作っていくことが必要だというお立場なんですね。
小林 まあ、そういうことになるかな。「物語なんて必要ない」と言ったって、従来の歴史教育では古代になるほど強い支配者がいて奴隷のように働いていた人間がいて、人類はだんだん圧政から解放されてきたという物語があった。それに対して「つくる会」はカウンターをやってきたわけだからね。「物語」なんてなくて、人間の歴史は、すべて脈絡なく、いろんなものが生起して消滅しているのか? というと、そうではないよね。
宇野 僕は、小林さんの最新作の『大東亜論』の第一巻を読んで――まだ大長編の最初の部分だと思うので内容に対してああだこうだと言うタイミングじゃないとは思うんですけれど――小林さんの「歴史」や「物語」に対する視線が、若干変わっているんじゃないかという気がしたんです。
『戦争論』の頃は、やはり半分は情報戦を戦っていたと思うんですよ、何かのバランスを取るため、強力な「戦後民主主義の物語」を中和して埋め合わせるための「○○ではない」という物語だったという気がするんですね。それが今回の『大東亜論』では、明確に「○○である」という物語に変わっていっていると思うんですよ。
■必要なのは承認か再分配か、それとも別の何かか
小林 さっき言っていたけど、朴さんが取材した一般の主婦の人たちは「自分たちのおじいちゃんは悪くなかった」というような主張をしているんだよね。たとえば慰安婦のことで、アジア女性基金を作って韓国にお金を払おうとしたとか、あるいは日本の首相が直々に手紙を書いたとか、「日本はこれだけのことをしているんだ」「何度も謝罪したし、お金の賠償もやろうとした」ということを各国に認めさせていったとして、その主婦たちはそれで満足するの?
朴 そうですね……むしろ「負けた」と思うかもしれないですね。「なぜもっと強い態度に出なかったんだ?」という感じになるのではないかと。
小林 でしょう。本当に、そういうことで納得するわけじゃないんだよね。つまり「河野談話そのものを否定してほしい」という感覚なんだ。結局はそこに行きついちゃう。
宇野 萱野さんのおっしゃる戦略(日本が中国や韓国などアジア諸国に対して行ってきた謝罪や賠償、超法規的な人道支援などを、国際社会に向けてきちんとアピールしていこうという戦略)が非常に大事なことなのはよくわかる一方で、それはかつて小林さんが戦っていた「尊厳を回復するための情報戦」の別のかたちではないか、とも思うんです。でも小林さんがいま『大東亜論』を描いているのは、情報戦を戦うだけではない、もっとポジティブな「物語」を出していくことが重要だと思ったからではないですか。
小林 まあ、そうかもしれないな。中国・韓国との外交がここまで成り立たないところまで来てしまっているけれど、ネトウヨも保守の論客も、「中韓と戦争しろ」「国交断絶しろ」とハッキリ言う人間はいない。ただ単に文句を言ってスッキリしているだけだな。それでは当然ダメで、本当は「その次をどうするか」について考えないといけないんだ。
だからわしは、日本が近代化する過程でまったく潰されてしまった側の思想家たちをもっとクローズアップした物語を描いてやろうと考えた。それぐらい度量が大きくならんとダメだろう、と思ったからだな。
わしだってもう歳を取ってしまっているから、「若造のときのようにカッカしてもしょうがない」という感覚もあるんだよ(苦笑)。排外的なナショナリズムとか、「敵を必要とするナショナリズム」に飽きてきた。だったらまったく新しい「物語」を提示しよう、という気持ちは正直あるかもしれないな。
これまで、戦後を通してバーっと左に行っていたのが、最近では一気に右に来たわけだ。この反動はそう簡単に勝てるものじゃない。だからやっぱり、何年かかけて描いてくことかなと思っているんだけどね。
宇野 結局この10年で、本来は思想的な戦いだったはずの歴史論争というものが、オタク的な情報戦にレベルダウンしてしまった。その結果「歴史観」という言葉自体が日本社会から死滅しそうになっている。そんな中で、ほとんど脊髄反射的に「中韓=悪」と思っているネトウヨが溢れていて、最近では実際の街頭にも溢れてきている。この状況は、もう冷徹にマネジメントしていくしかないと思うんですよ。
ネトウヨはなくならない、でもその中で実際に暴力に訴える連中が出てきたり、日本の外交の足を引っ張ったり、そういうことがないようにどうするかというのが今の課題だと思うんですね。そのとき、じゃあ一回完全に敗北してしまった「物語」とか「歴史」を語るという文化的なものにどういう役割があるのか、ということを僕は考えたいんです。つまり、機能主義的な「方法としてのナショナリズム」として「物語」はどう機能するのか。そしてこの安倍政権下で機能する「物語」はどんな内容なのか。
小林 ただ、ネトウヨにとっては中韓に対して怒ったりすることそのものが、宇野氏の言うところの「物語」というか、「生きがい」なんだよな。
與那覇 しかし彼らの生きがいに「国家」という要素が本当に入っているのかは、ここまでの議論からも明らかなように疑問ですよね。これまでリベラル側の知識人は「あれは危険なナショナリズムだ」という言い方をしてきたけど、多分「ナショナリズムですらない」わけですよ。彼らには日本の国益や外交上の勝利よりも、いまこの瞬間、自分がスカッとすることの方が大事なわけですから。
小林 まったくそうで、愛国心でもナショナリズムでもなんでもない、自分の生きがいなんだね。朴さんが取材してきた主婦たちだって、同じだと思うよ。
朴 おそらく、そこで「生きている実感」を得ている、ということなんですよね。
宇野 そう考えると、彼ら彼女らに必要なのは、ちょっと自分をチヤホヤしてくれる共同体とか、ソーシャルメディアでの小さな自己実現とか、「いいね」を百個ためるとか、そんなことだけが必要という結論になってしまいますよね。
そうなると、もう「歴史」や「物語」を語るとか、夢を語るとか思想を語るということに価値は一銭もないということになっていく。ぶっちゃけ僕自身にもそういうリアリティがあるんですよ。でも心のどこかで、それに抵抗はなくもない。でも、ロジカルに考えれば考えるほどこの結論は揺るがない。だから今日僕は、リベラル側のどんな物語が機能主義的にネトウヨのカウンターパートと成り得るのか、それが承認欲求に飢えたネトウヨの中和剤に留まるのか、もっと大きな理念を描き得るものになるのかを考えてみたかったわけです。そして残念ながら現時点では前者で構わないし、それでなんとかするしかないと思っている。
萱野 私もやっぱりその結論には抵抗があって、どういうところに抵抗があるかというと「あれはナショナリズムじゃないんだ」「もはやナショナリズムですらない」「愛国心ですらない」としてしまうことなんですよ。
たしかに、私生活のなかの不満が原因となって反韓・反中感情につながっている部分はあるのかもしれない。でも彼らの感情には、必ず日本を取り巻く経済・社会の状況や国際情勢が反映されているのだから、「最終的には個人の問題でしょ」とするわけにはいかないと思います。やはりそこで、「日本」という問題を語り続けなければいけないんですよ。
宇野 これは繰り返しになってしまうけれど、僕は実感としてはやっぱり、ほとんどが個人的な生活とか感情の方に還元されると思っているんです。僕が究極的には政治や経済より、「文化の側の人間」というか、カルチャー評論家なので「物語」の機能に一番関心があるからなのかもしれないですが。
ひとつ言えるのは、ある種のポジティブな「物語」――たとえば「敵を必要としないナショナリズム」――を提示して、そこに感染した人々が集まって何かをやるとか、そういったものならあり得るんじゃないかと思うんですよ。もちろんそれはネトウヨを減らすことにはまったく寄与しないですけど、消極的に安倍政権を支持している中道派の軟着陸先になる可能性はあるんじゃないか。
萱野 宇野さんの言う、「ネトウヨ的なものとは別の『物語』が必要だ」というのはまったくその通りだと思いますが、それもまたやはり「日本」が主語となる物語にならざるを得ないと思うんですよ。
宇野 でも、それはたとえば今、小林さんが描こうとしているポジティブな意味でのアジア主義のような、インターナショナルなかたちを取ることは考えられませんか?
萱野 それでもいいですけれど、それでも結局は何らかの国際的な状況のなかの「日本」の立場を昇華させていく、という話になるわけじゃないですか。
與那覇 お二人の主張はそれほど対立しているわけではなくて、「ネトウヨ」と呼ばれる人々の狭い意味でのナショナリズムとは違うものを求めている、という点では共通ですよね。ただ、同じものをどの角度から見るかが、少し違う。
宇野さんが「文化の側の人間」とおっしゃったけど、カルチャーにたとえるといま、どんな野球チームやサッカーチームよりも「ナショナルチーム」が一番人気なわけですよね。それで、サッカーの日韓戦を見るのと同じような感覚で、日中韓の外交戦を見ている人たちがいて、彼らにはちょっと謝罪っぽい言葉を使ったとか、歩み寄ったというのが、相手チームに一点決められてしまったかのように見えている。結果として、選手よりサポーターの方が非理性的に暴走するフーリガン状態になっていると。
じゃあどうやって彼らの気持ちをケアしつつ、日本の国益を誤らないようにするかというときに、宇野さんは「彼らには、政治ゲーム以外で代替の娯楽を提供してあげるのが第一だ。一方で政治面では、これまでより洗練されたオルタナティブな物語を開発して、落ち着いた人々に呼びかけていこう」と言っている。対して萱野さんは「現に『日本チーム』の活躍が見たいと思っている人たちがいる以上は、その別種の物語なりエンターティンメントなりもやはり、『日本チーム』を主語にしたものではないと機能しない」とおっしゃっているのではないでしょうか。
萱野 そうですね。結局、日本が直面している問題を解決していくことなしには、新しい「物語」を作りようもない。それは同時並行でやらざるを得ないでしょう。だから私の言っていることと、宇野さんの言う新しい別の「物語」とは、排除し合うものではないと思います。
※この座談会の全文は、電子書籍『ナショナリズムの現在』で読むことができます。
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