【今週のお蔵出し】
 1/7のお蔵出し:東京2020 ──裏オリンピック計画
                                  (初出:「ダ・ヴィンチ」2014年1月号)



 僕がオリンピックの誘致について最初に意識したのは、今年の春に代々木の第一体育館で行われた東京ガールズコレクションに出かけたときだ(僕は職業柄、こうしたガラでもないタイプのイベントにも出かけたりするのだ)。そのまるで90年代で時間が止まったような、「流行」も「時流」も東京のマスメディアと広告業界が創出し、発信できるのだという(僕らからすると申し訳ないけれど時代遅れに見える)自信にあふれた空間に、眩暈がしたのを覚えている。
 そんな中で、特に僕がぎょっとした──ほとんど嫌悪感すら覚えた──のが、会場に設置された東京オリンピック誘致への国民の賛意を訴える「広告」パネルだった。そこにはいわゆる「テレビタレント」と「スポーツ文化人」たちが、「(五輪招致が成功したら)私、〇〇〇〇は〜します」という「公約」が、ただし限りなくジョークに近いものが掲げられていた。たとえばお笑い芸人の浜田雅功(ダウンタウン)は「開会式のどこかのシーンで見切れます」と、女子サッカー日本代表選手・澤穂希は「銀座のホコ天でサッカーの試合をします」と、掲げている。僕はこういう遊び心を悪いとは思わない。しかし、この広告を一目見た瞬間にどうしようもなく白けてしまった。はっきり言って、サムかった。タレントのホラン千秋は「ちょっとの間、ゴリン千秋に改名します」と「公約」を掲げていたが、基本的にテレビを流しっぱなしにするという習慣のない(気になる番組だけを録画で見る)僕は彼女が何者なのか分からなかった。その状態で「ドヤ顔」でつまらないダジャレを観させられても、何というか反応に困るしかない。そして何より、僕がウンザリしたのはこの企画(「楽しい公約プロジェクト」というらしい)を考えて実行した人たちは、いまだにテレビや広告が「世間」をつくることができて、人気者とそうでない者との差をつくることができて、そして世論をコントロールすることができると思っていることだ。誰もがテレビを見て、テレビタレントを「人気者」として認知する「世間」に所属していると思っているのだ。
 もしそんな世の中が持続しているのなら、広告屋もテレビ業界も昔のように羽振りがいいはずだし、ニコニコ動画もボーカロイドも普及していない。テレビに出ない(出られない)ライブアイドルのブームも起こらない。もはや、誰もが家にいる間はお茶の間のテレビをつけっぱなしにして、そこで扱われていること=世間の出来事という「前提」を共有しているのは社会の半分でしかない。いまだに20世紀を生きる、旧い日本人だけだ。そんな自明のことが頭に入っていない(もしくは目を逸らしている)人が税金で報酬が支払われるプロジェクトの広報を担当して、大手を振って歩いているのだ。
(結果的に招致は成功したからいいようなものの)五輪招致の、国内に対する広報戦略で重要なのは招致反対派を抑え込むことだ。招致には現地住民からの「支持率」がものいうという。このとき重要なのは「(僕のような)特に五輪自体に関心はない、したがって大反対ではないけれど、面倒なのでできれば来ないでほしい」と思っている層を明確な「反対」層に育てないことだ。しかし、こういう広報戦略は、オールドタイプのマスコミたちの勘違いは間違いなく僕たちのような層の反感を育てるだろう。実際、僕はその日から以前より強く、五輪には「来ないでほしい」と考えるようになった。