1、不確実性を思考する
本連載もそろそろ終わりに近づいている。私はここまで、世界文学の中心を占める小説を、広義の人類学的対象として捉えてきた。人類の諸文化がそれぞれ世界理解の型をもつように、小説もいわば特異な人工知能として、世界を思考し、解釈し、再構成する力をもつ。人類と小説はドン・キホーテとロシナンテのように、異質な隣人として共生関係を結んだ。人間は小説を利用して、世界を了解し直す。その一方、小説は人間の利用を利用して、その流通の版図をグローバルに拡大してきたのである。
小説とは、隣人である読者=人間の心を巻き込みながら、思考を引き延ばす装置である。それは人間の心そのものではないが、人間の心の諸機能(知覚、想像、情動、想起、予測……)を擬態する能力をもつ。私は小説を、人間の心の動きを言語的なレベルに翻訳した《心のシミュラークル》と考えたい。この心の似姿は、ときにかえって本物の心以上に複雑怪奇な多面体として現れるだろう。心と言語を結合させた小説が、ウイルスのように流行し、人間の思考の不可欠の隣人になったのは、それ自体が人類学的現象として注目に値する。
心のシミュラークルとしての小説の流行は、ヨーロッパ近代において、思考の意義が更新されたこととも関わる。その指標として、思考そのものを思考した一七世紀のパスカルの『パンセ』を挙げておこう。
パスカルは「人間の尊厳のすべては、考えのなかにある。だが、この考えとはいったい何だろう。それはなんと愚かなものだろう」と記した。彼によれば、思考は人間の尊厳の根拠になるほどには偉大であり、それでいて非常に愚かで卑しいものである。思考は確実なものや堅固なものは何一つ与えない。ゆえに、人間が多くの不確実なもの、具体的には「航海」や「戦争」に賭けるのは当然である。「人が明日のため、そして不確実なことのために働くとき、人は理にかなって行動しているのである」[1]。デカルトが懐疑の果てに、思考しつつある我(コギト)という根源にたどり着いたのに対して、パスカルは存在の根源にいわば「賭け続ける我」を発見した。
もとより、パスカル自身は小説家ではないが、彼の洞察はその後の小説の時代の予兆になっている――近代小説の歴史はまさに航海と戦争という「賭け」によって導かれたのだから。思考はもはや確実な地盤に到る技術ではなく、不確実性の海における賭けの連続に等しいのではないかというパスカル的な問いに、小説というジャンルは新たな活力を与えた。小説とは、さまざまな不確実性を織り込んで思考し続けるための装置なのである。
では、小説という特異な思考装置は、いかなる進化史をたどって構成されたのか。それが私の取り組んできた問いである。この問題にアプローチするにあたって、私は文学史をさまざまな角度からリプレイし、得られた結果を多層的に重ね書きするようにして記述してきた。この作業を世紀の区切りを基準として、もう一度実行しておきたい。
2、《場を超える場》としての海――ダンテからメルヴィルへ
一四世紀のダンテの『神曲』地獄篇第二六章で語られるオデュッセウス(ユリシーズ)の物語は、強い印象を与える。「この世界を知り尽くしたい」という知の欲望に駆り立てられたギリシアの英雄オデュッセウスは、家族を捨てて仲間たちと禁断の航海に出るが、地中海をめぐり、スペインやモロッコを横目にジブラルタル海峡を越えようとしたとき、神意によって船を転覆させられる。「やがて私たちの上には海がまたもと通り海面を閉ざした」[2]。不確実性への賭け=航海は、神の力によって封印されたのである。
西に向かう「狂気の疾走」を強制終了され、神の禁止を破った罪によって地獄の火で焼かれるダンテ版のオデュッセウス――その苛酷な姿は、不吉とされた西方にあえて旅立ったコロンブス以降のヨーロッパ人の存在様式を、見事に先取りしている。ダンテはここで、未来の探検の時代を明晰に「予言」しつつ、峻厳に「拒否」したのだ[3]。のみならず、『神曲』のオデュッセウスは後の文学上の冒険者たち、特に『白鯨』のエイハブ船長の先駆けにもなった。ボルヘスが指摘したように、両者はともに「刻苦と豪胆さによってわが身の破滅を招く」のであり、その最期の言葉まで似通っているのだから[4]。
ただ、『神曲』の場合、世界=海への欲望は、地獄・煉獄・天国から成る三位一体の神学的構造のなかに拘禁された。ダンテは〈世界〉への欲望を予告しつつ、それを厳しく断罪した。オデュッセウスの船が沈められ、海が閉ざされたとき、世界もまた閉ざされたのだ[5]。
逆に、およそ五〇〇年後の一九世紀の『白鯨』になると、海=世界はもはやこのようなリジッドな構造に収容されず、むしろ不確実性に満ちた不定形の時空として現れる(第六章参照)。海をワープするように移動する鯨の出現は、確率的に推測するしかない。鯨を追跡するエイハブは、オデュッセウスのように特定の場(地獄)に束縛されず、船員たちもろとも《場を超える場》、つまり脱領土化された海に没入してゆく。『白鯨』には土台を失った〈世界〉における、ほとんど愚かしいとも言える賭けの連続が記録されている。不確実性を思考するメルヴィルは、尊厳と愚かさが「賭け」において両立するというパスカル的問題を、小説の核心に据えたのである。
3、〈世界〉に響くダイモンの声――ラブレーと海
ここで、ダンテとメルヴィルのあいだに一六世紀のフランソワ・ラブレーを挿入してみよう。ラブレーの奇想天外な小説『ガルガンチュアとパンタグリュエル』の「第四の書」(一五五二年)では、巨人族のパンタグリュエル一行が神託を求めて航海に出る。彼らは後のガリヴァーのようにさまざまな部族の住む国を巡り、その奇妙で珍しい習慣や暮らしぶりを記しながら、当時の反動的な教会や医者に対して、強烈な批判を浴びせてゆく。
この文化人類学的な探検は断片的なエピソードの連続であり、『神曲』のような厳格な構造をもたない。大船団を組織したパンタグリュエルらは「出エジプト」の詩編の朗誦に見送られ、暴風雨にさらされながら未知の島に気安く上陸し続けては、ときに巨大な鯨を退治し、ときに派手な戦争も引き起こす。この聖書のパロディのような多産多死の航海は、陽気であり、しかも危険に満ちている。パンタグリュエルの考察によれば、航海者は「死にながら生きており、生きながらも死んでいる」[6]。ラブレーの海は生にも死にも属さない別の人間、オルタナティヴな人間を浮上させる。そして、この生と死のあいだを放浪する航海の終わりに、パンタグリュエルの心に突然謎めいた声が響く。
「ううん、なにやら」と、パンタグリュエルがいった。「急に、後ろから引っぱられるような気持ちがしてきたぞ。〈この場所に上陸するなかれ〉と命じる声が、遠くから聞こえてくるような気がするのだ。心のなかで、そのような気持ちの揺れを感じるたびに、わたしは、こうやって引き止められた方向に進むのをあきらめて、その場所を立ち去ったことを、それでよかったのだと思ったし、あるいは反対に、わが心が勧めた方向に従って進んでいった場合もあるけれど、それもまた、それでよかったと思っているのだ」
パンタグリュエルは祝祭的な船旅の終わりになって〈この場所に上陸するなかれ〉という禁止の声を耳打ちされる。興味深いことに、彼の部下は、この不思議な声を「ソクラテスのダイモン」として説明する[7]。プラトンの『ソクラテスの弁明』によれば、ダイモンはソクラテスが間違いを犯しそうになったとき、それに「反対」する神霊の声として現れた。この不可視の霊的な声は、ソクラテスに「何をすべきか」は一切教えず、その代わり「何をしてはならないか」を告げたのである。
『神曲』のオデュッセウスを束縛した神の厳格な禁止とは違って、「ソクラテスのダイモン」の唐突な声は、内的であり謎めいている。だが「その行為は間違っているから引き返せ」という内なる否定の力は、パンタグリュエルの旅の性質を劇的に変える。この宣告に従うようにして、世界を陽気に航海してきたパンタグリュエルの物語は、慌ただしく閉じられる。そのとき、快活な探検の旅は終わり、進むべきとも退くべきとも決められない根源的なあいまいさが立ち現れてくる。
世界進出に反対する「ソクラテスのダイモン」の声をきっかけとして、パンタグリュエルの心に未知の揺らぎや迷いが生じること――この奇妙な展開は、ラブレーとほぼ同年に生まれたラス・カサスが、新世界の悪を批判したことを思わせる。ラス・カサスはヨーロッパの言論空間に「その行為は間違っているから引き返せ」というダイモンの声を、キリストの霊とともに響かせたと言えるだろう。この見地から言えば、陽気なパンタグリュエルをあいまいな心境に導くダイモンの声は、新大陸でのジェノサイドを引き起こした黒い歴史への応答ではなかったか。
この内的な禁止の声を振り切るには、ときに常人離れした異常な意志が要求される。現に、ダンテ版のオデュッセウスの狂気を引き継いだ『白鯨』のエイハブは、慎重さを求めるスターバックの声を無視して、決然と海に乗り出した。裏返せば、狂気の力なしには、自己はただちにあいまいさや不確実性に呑み込まれてしまう。それが〈世界〉との接触の帰結である。
一四世紀のダンテは神学的な構造のなかで、不確実な〈世界〉への誘惑を断ち切った。しかし、ポスト神学時代になると、〈世界〉は「ソクラテスのダイモン」のような不可解な力、禁止を発する超自我の声を呼び覚ます。小説は確かに人間を中心にするが、その人間は自己とは別の力によってあらかじめ規定されてもいるのだ。私は先ほど、小説を「さまざまな不確実性を織り込んで思考し続けるための装置」と呼んだが、その思考は人間を超えた霊的な声に先行されている。
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