今回のメルマガは、批評家・石岡良治さんの「シャフト」論をお届けします。
数々のヒット作とともに現代のアニメシーンを牽引してきたアニメスタジオの一つ、シャフト。近作では『五等分の花嫁∽』を手がけたことで改めて注目が集まっている「シャフト演出」の魅力と底力について考察しました。
(初出:2023年8月24日放送「石岡良治の最強伝説 vol.65 テーマ:シャフトアニメ」、構成:徳田要太)
「シャフトアニメと演出(ミザンセーヌ)の力」というテーマで、シャフト作品について分析してみようと思います。「演出」という言葉を「ミザンセーヌ」と読みたいと思いますが、フランス語で「セーヌ」というのは英語の「シーン(scene)」のことです。英語に直訳すると「put in scene」となり、映画における特定場面の演出のことを指します。マンガで例えれば、数ページ単位で展開する場面のことで、たとえば『SLUM DUNK』の「あきらめたらそこで試合終了ですよ」のセリフが登場する一連の場面のように、そのシークエンスのユニットを切り取った部分のことを指します。いわゆる「切り抜き動画」で切り抜かれる部分がどのように作られているか。そういった視点からシャフトアニメを考えてみます。
分析にあたって『モーション・グラフィックスの歴史:アヴァンギャルドからアメリカの産業へ』(三元社、2019)という書籍を紹介しようと思います。「モーショングラフィックス」というのは一言で言えばテキストやイラストに動きや音声をつける手法のことで、言葉自体は多くの読者の方が聞いたことがあるでしょう。端的な例はソール・バス(1920-1996)が手がけた映画のタイトル画面などが挙げられると思います。
▲アルフレッド・ヒッチコック『めまい』(1958)のビジュアルポスター。タイトルバックでは映画史上で初めてコンピューター映像が取り入れられた。(出典)
これまでの国内の映像研究は物語の分析に偏っていて、こうした視覚演出が見過ごされる傾向にあったのですが、近年の研究ではこのモーショングラフィックス的な表象の映像演出を改めて見直す機運が高まっているように感じます。
「映像演出」というとアニメファンの多くはいわゆる「作画アニメ」を思い浮かべるかもしれませんが、これは「モーショングラフィックス」的な演出とはやや別物であると考えています。つまり「すごい」作画アニメと言われてるものはじつは、実験映画のように演出手法そのものを発明するようなものではなく、あえていうとその大半は「身体」の描写が精緻だということに過ぎません。極論すればバトルアクションか、窃視のエロティシズムの二つに還元されるものだと言えます。ある意味では、内容は空虚かもしれない一連の「トム・クルーズ映画」において、彼が体を張っているだけで感動するような感性と同じなわけです。
そうした面白さだけではなく、実験映画でみられたような映像演出の遺産が、どのように昨今のアニメなどのエンタメ映像作品に落とし込まれているのかを考えるには、「モーショングラフィックス」を媒介として捉える必要があると思います。たとえばオスカー・フィッシンガー(1920-1947)は「ヴィジュアル・ミュージック」の始祖的な人物で、「映像の動きと音を同期させる」という、今日のMVなどでは当たり前にみられる手法を発展させたことで知られています。彼の影響の元にディズニー映画の名作『ファンタジア』(1940)などがあり、じっさい彼は同作の一部制作に参加した後方針の違いから離脱するということもありました。こうした映像作品は多くの作家が作りたがるもので、例えば大友克洋の『MEMORIES』(1995)、あるいは庵野秀明を中心に企画された「日本アニメ(ーター)見本市」(2014〜2018)もそれに含めていいでしょう。ああいったモーショングラフィックス的な映像美学を目指した作品はいくつか存在しますが、残念なことに「物語」が映像分析の前提となっている時代環境では、製作陣の技術力に比して十分な評価は得られませんでした。
しかし、今日の日本アニメーションのグローバルな達成においては、『モーション・グラフィックスの歴史』で分析されたような視点から映像演出について考えることの意義は大きいと思っています。
2023年のシャフト再評価
さて、私がシャフトに(再)注目したのは2023年に公開された映画『五等分の花嫁∽』がきっかけでした。同時期には『君たちはどう生きるか』も含めて話題のアニメ映画がいくつか公開されていましたが、自分でも驚いたことに最も惹かれた作品は『五等分の花嫁∽』でした(笑)。正直公開前は何も期待しておらず、同シリーズについてもいわゆる「マガジン」ハーレムラブコメの中では女性人気も相まって一番人気だった、という程度の認識です。内容的に言っても、夏休みに海とプールを連日ハシゴする場面をわざわざ映画化するという、どう考えてもおもしろくならない脚本でしょう。ところがじっさいに観てみるとどういうわけか感動してしまったんですね。
簡単に言うと「ウォータースライダー」と「ブランコ」がポイントです。あまり使いたくないミームですが、いわゆる「負けヒロイン」のことを「滑り台ヒロイン」と呼ぶことがあります。マルチヒロインものではメインヒロインになれなかった子が、滑り台とブランコなど公園の遊具で遊ぶシーンがしばしば描かれます(おそらくノベルゲームの演出が肥大化してそうなっているのではないかと思います)。一応名前は伏せますが、ヒロイン候補のうちあるキャラがブランコに乗っているというだけで感動してしまって、かなり驚きました。
ブランコというギミックについて考えたいのですが、過去のアニメ作品で有名な場面といえば、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(1997)において、幼少期のシンジを描いたシーンでブランコが使われていたと思います。また私が想起したのはやはり、黒澤明の最高傑作とも言われる『生きる』(1952)の有名なラストシーンです。胃がんによる余命宣告を受けた市役所勤めの中年男性が、ある女性との出会いから希望を取り戻していき、晩年は住民の希望だった公園の建設に奔走するという物語です。やがて彼は亡くなってしまうんですが、最期の瞬間をついに完成した公園のブランコの上で迎えるわけです。これはフランク・キャプラの『素晴らしき哉、人生!』(1946)へのアンサーになっていると思います。現在でもクリスマス定番の古典となっているこの映画は、自殺願望を抱えた男が周囲の支えと天使の力によって自殺を踏みとどまる話なんですが、自殺はキリスト教では特に重い罪だという文脈で、生きることの希望を描いているわけです。『生きる』では、おそらくキリスト教的フレームワークはある程度外していて、クリスチャンでない人にも通じる普遍性を獲得したと思いますが、これは日本のアニメ、あるいは日本文化の「良さ」と「欠点」の両方に関わっていると思います。
この点については後述するとして、ここではひとまず、公園の遊具は両義的な意味を持つものとして機能するということを指摘しておこうと思います。つまり、戦後復興期には次世代の希望の象徴として、逆に現在ではその意味が完全に逆転して一種の産業遺構として機能します。産業遺構といえば強制労働などが問題になった軍艦島や富岡製糸場などの工場跡地など、近代から戦後復興期の遺産のことを指しますが、現存している公園もそれに含まれるわけです。現在は子供にとって危険ということで、立ち入り禁止になったり撤去されたりしている遊具が増えていますよね。
そういった「遊具」が揺さぶられるというだけで、未来を向いてようが過去志向であろうが、ある種のエモーションを掻き立てられるわけです。シャフトに関しては一時期は少し熱が冷めていたんですけれど、こうした経験から改めて再注目するきっかけを得ました。
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