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本日のメルマガは、批評家・石岡良治さんの論考をお届けします。 スタジオジブリ最新作の公開や、近年の新海誠の評価などから、現代は「国民的」アニメ映画とは何かが問われる時期にあります。今回は改めて『君の名は。』時点での新海誠をどう評価すべきか、石岡さんが論じました。 (初出:石岡良治『現代アニメ「超」講義』(PLANETS、2019))

細田守から新海誠へ

 あらためて、新海誠の『君の名は。』から現代のアニメを考えてみましょう。2016年の同作は、アニメ映画としては2001年の『千と千尋の神隠し』に次ぐ歴史的ヒットとなり、普段アニメを観ない人にまで届いた作品です。マイナーかつマニアックな作風で知られていた新海誠の作品が、これほどまで広範囲に受け入れられた理由を考えるうえで、『現代アニメ「超」講義』第1章で述べたことを繰り返すなら、作風をよりメジャーなものに寄せていく際に、いわゆる青春映画を強く意識したことが挙げられるでしょう。細田守監督の『時をかける少女』が直接の参照ですが、キャラクターデザインに田中将賀を起用したことで、『とらドラ!』以降の超平和バスターズ組(『あの花』『ここさけ』)の作風も取り入れられています。
 『君の名は。』は「ポスト細田守」を意識した企画となっており、大林宣彦監督の『転校生』(1982)のモチーフ、すなわち原作の山中恒『おれがあいつであいつがおれで』によって広く知られるようになった男女の入れ替わりネタを、時空を隔てた男女の入れ替わりとして描きました。大林宣彦監督版『時をかける少女』(1983)の続編としての性格をもつ細田守作品とは別のタイプのオマージュとなっています。またタイトルも、戦後の混乱のなかでカップルがすれ違いまくるが最後には出会って結ばれるドラマ『君の名は』(ラジオドラマ版:1952~1954)から取られていることが有名です。
 『現代アニメ「超」講義』の序章で少し考察した「ポストジブリ」という呼称が、細田守や新海誠の作風とそぐわないと感じる人は多いと思います。それはおそらく、ここで想定されているのがジブリアニメのすべてではなく、スタジオジブリが1990年代前半に、高畑勲監督の『おもひでぽろぽろ』(1991)、望月智充監督のテレビスペシャル『海がきこえる』(1993)や近藤喜文監督の『耳をすませば』で追求していた、ファンタジー要素が希薄な現代劇の系譜に位置付けられるからでしょう。当のスタジオジブリはこの路線を伸ばすことはせず、1997年の『もののけ姫』以後の国民映画路線へと舵を切り、代わりに細田が2006年に『時をかける少女』を成功させることで、『耳をすませば』が切り開いたポテンシャルを継承したわけです。
 実のところ『君の名は。』は、このような参照項が加えられた以外、基本的にはこれまでの新海誠アニメと変わっていないところが興味深いのだと思います。なのでジブリアニメが担っていたような国民映画的な感触よりは、むしろ実写の青春映画的な要素がうまくハマったことで、中高生の圧倒的な支持が得られたことがヒットの大きな要因になったのだと思います。
 近年の青春映画の雛形というと、一方には少女マンガ原作の『アオハライド』(2014)のような複数男女の恋愛群像劇があり、もう一方には『君の膵臓をたべたい』(2017)や『四月は君の嘘』(2016)のような難病ドラマがあります。後者は難病ヒロインの死を目の当たりにすることで、恋愛のロマンティックな展開が繰り広げられる。昔だったら結核として描かれていたもので、ジブリアニメでいうと『風立ちぬ』(2013)で展開されていたようなドラマになります。
 難病ものには、死ぬまで恋人と添い遂げる甘美なファンタジー性と、性的な展開をそれほど入れずに済むメリットがあります。普通であればセックスよりも死のほうが重々しいはずなんですが、こと青春枠のフィクションにおいてはなぜかセックスのほうが重くみられているため、死というデバイスが便利に使われる傾向があるように思われます。その要素は『君の名は。』にも、大災害による三葉の死という形で入っていますね。
 対して『君の名は。』には、口噛み酒や三葉が胸を揉むアクションといったセクシャルな要素も入っており、一部からは批判も浴びましたが、これは現在ではアニメだからこそできた描写だと思います。古くは実写のドラマにも、性的な要素を交えたコメディはたくさんありました。実写映画の『転校生』もまさにそうで、当時高校生すなわち18歳未満だった小林聡美が下着姿になったり、上半身裸になったりする描写が出てきます。現在の実写映画では、こうした描写はもはや倫理的に困難になっているように思われます。しかしアニメであれば、今なおそのような描写を入れることができるわけです。『君の名は。』はそこの強みをうまく活かしていたと思います。
 また『君の名は。』はノスタルジーコンテンツとしての機能も巧みでした。たとえば、『君の名は。』には地方の伝統行事が描かれているなど聖地巡礼的・地域おこし的な要素が入っていますが、シナリオにおいては最終的に、メインの登場人物4人全員が上京してきてしまう。地域起こしものにありがちな、村落共同体礼賛どころか、その場所は災害によって失われ、新海誠が得意とする新宿近辺すなわち都心部の描写へと引き寄せられるわけです。一歩引いた視点で見るなら、地方から都市への一極集中は日本の未来の姿として見てもリアリティがあると思いますし、地域をノスタルジックに描く要素を備えつつも、『秒速5センチメートル』のような青春の喪失感に対するこだわりのような、後ろ向きな感じが消えているんですね。
 また2018年の中国アニメ『詩季織々』も補助線になると思います。『詩季織々』は、『秒速』ファンの李豪凌総監督が、新海監督の所属するコミックス・ウェーブと共同で作った、“ジェネリック新海” スタイルのオムニバス映画です。この作品を観ると、新海スタイルを用いれば、世界中の様々な都市で、同じような青春アニメを作れるような気がしてきます。
 つまり、地方と都市の格差、学園生活、そして初恋、別離、再会、そうしたモチーフをナルシスティックなモノローグと映像でアニメ化すれば、世界中どの地域でも青春アニメが作れるという普遍性のようなものが見出せるのではないか。そう考えると『君の名は。』の特異な点は、特殊アニメ的なものではないけれども、ユースカルチャーとしてのアニメのユースの部分をうまくすくい上げることに成功している点だ、というのが見えてくるわけです。
 『ほしのこえ』におけるPHSを用いたメールコミュニケーション描写の頃から一貫してそうですが、『君の名は。』も2016年のディテールを描き込みまくっているため、後の時代に振り返ったときには、作品で描かれている世界は古びると思いますが、むしろそのことによって「2016年のリアリティ」を通じた普遍性を得られるタイプのものだと思います。