あの日から10年が過ぎた夏、僕(宇野)は石巻と気仙沼に暮らす二人の知人を訪ねることにした。その中で歩いた仙台、閖上、女川、そして陸前高田。10年後のいま、これらの土地を走ることではじめて見えるものたちとは。土地と人間の関係について改めて考える旅の記録。
(初出:『モノノメ 創刊号』(PLANETS,2021))
10年目の東北道を、走る|宇野常寛(前編)
10年目の、旅のはじまり
2021年の夏がはじまろうとしていたある日、僕は編集部のスタッフたちと東北地方へ旅立った。より具体的には、あの地震と津波で被災したいくつかの土地に向けて出発した。10年の時間が過ぎて、3月11日の節目が終わって、復興予算も削られて、復興を旗印に誘致されたはずのオリンピックからはいつの間にか復興という主題が消し去られてしまって、あらゆる意味で忘れられようとしている土地を、僕たちは訪ねることにしたのだ。
僕たちの旅は、最終的には二人の人物に会うことを目的にしていた。一人は、僕の高校の先輩にあたる人物で、もう一人は個人的に参加している研究会で知り合った人物だった。そしてどちらも、民間に生きる市民の立場から津波の被害を受けた地元の街の復興に携わっていた。僕は彼らの話を、彼らが暮らす街に身体を運んだ上で率直に聞いてみたい。そう考えたのだ。
そして僕は地図を広げて、二人の暮らす石巻と気仙沼を中心にその周辺に足を伸ばす計画を立てた。旅に出る前に最初に決めたことがある。それは「いい話」とか、「ひどい話」を探しに行くことは絶対にしない、ということだ。ただその土地を歩いて、目にして、耳にして、触れたものを淡々と記録すること。その上で、その意味を考えることをこの旅のルールにした。
そして結論から述べると、僕たちが触れた東北の街は、山は、海は、とても美しかった。両親ともに東北(青森と山形)の生まれで、自分も八戸で生まれている僕は夏の東北──と言っても、あの広大な地域のひとつひとつの土地はそれぞれまったく違う顔を持っていて、僕が知っているのはそのうちいくつかに過ぎないのだけど──が、とても気持ちのいい場所であることを経験している。しかし、そこに展開されていた人間の世界は、人間同士のネットワークは閉じていて、ねじれていて、不必要に絡まっていて、その結果としてその土地に暮らす多くの人々と、その土地との関係もひどくゆがんでしまっている。そう、僕は改めて感じた。
ここに載せた写真は僕たちが目にした土地の姿をそのまま写し取ったもので、そして僕の文章はその土地の姿を直視できない、どこかでゆがんでしまった人間の世界のことを記述したものだ。カメラのレンズと人間の目、このふたつの視界の間にある落差を、感じてもらえたらと思う。そして、このふたつの視界をどう結び直すかを、一緒に考えてもらえたらと思う。
荒浜と閖上──異界の海と空
僕たちが最初に訪れたのは、仙台市の郊外の荒浜だった。震災前、ここは夏に海水浴客で賑わう場所だった。およそ800世帯、2100人ほどが住んでいた集落は、10年前の津波でほぼ完全に流され、約1割にあたる186人が死亡した。集落は復興されず、住民は内陸に移住し、海水浴場も閉鎖されたままだ。避難場所として多くの住民の生命を救った荒浜小学校は廃校となり、その校舎の遺構を中心とした公園開発が進行している……ということだったが、実際に足を運んだ僕たちが目にしたものは端的に述べれば廃墟、だった。いや、それは廃墟ですらないだろう。すべては10年前に流されてしまって、そしてその流された跡は最低限の地ならしがされただけで(計画はあるのかもしれないが)放置されていた。そこにあったのは、ただただ広い空と、砂浜と、そしてその砂浜から続く平坦な荒れ地だった。仙台は市街地を抜けるとすぐ田園が広がっているのだけれど、その水田が海に近づくと麦畑になり、そしてある地点からこの放置された荒れ地になる。その先に、このかつて海水浴場だった砂浜が広がっている。砂浜には名前の知らない雑草が密集していて、それらが黄色い穂をつけて揺らいでいる。圧倒的な空白がそこにあって、それを松たちが見守っている。10年前の津波で、不自然にある地点から下の枝を失って、歪んだ松たちだ。自然のもたらした不自然な空白。明るい異界。人間の世界と地続きなのだけれど、切り離された土地。明らかにそこは、僕たちの生活世界とは異なる論理で記述された場所だった。僕はそこを歩きながら考えた。もし自分がこの土地に暮らしていて、中学生か高校生くらいの年齢だったらときどき、自転車に乗って一人でここを訪れて本を読んで過ごしていただろう、と。そして、この異界は誰か意図して作り上げたものではない。ただ、自然がそうしただけのものを、人間の知恵と力が追いつかなくて放置していた結果そうなっているだけだった。
僕たちはその足で名取市の閖上(ゆりあげ)という土地へ向かった。ここもあの津波で集落がほぼ丸ごと流されて、跡形もなくなっていた場所だった。犠牲者は700人以上に達した。僕たちは復興のアイコンとなった「かわまちテラス閖上」と名付けられた、土地の食材を扱う店舗を中心としたショッピングモールを見学した。そこは、たぶんありったけの祈りと、被災をバネにこの土地をもっと豊かで、気持ちのいい場所にしたいという前向きな願いがぎゅっと詰まったような、細部までしっかりデザインされた空間と建物だった。しかしコロナ禍の影響か人影はまばらで、印象的なのはその周囲の、荒浜と同じように事実上放棄された荒れ地のほうだった。
そこには、大量の消波ブロックが並べて保管してある場所や、整地だけされて何年も放置されているであろう雑草の目立つ場所が点在していた。人間たちはこの土地に暮らすことを諦めていた。そして暮らす代わりに、何かを作ろうとはしているようだった。しかし、10年経ってもそれがかたちにはなっていなかった。流されたあとに、何を作ってよいかわからない。そのことが、この国が直面している貧しさのすべてを表しすぎているように僕には思えた。
僕たちは荒れ地を抜けて、近くの大きなイオンモールに入って、スターバックスのラテとユニクロでセール中だった春物のアウターで冷えた身体を温めた。その日は夕方が近くなると、海風は一気に冷たくなって、僕たちの手足の筋肉はすっかり固くなっていた。荒れ地の中に設けられた広い道路を走ると、「津波ここまで」と書かれた標識があって、そしてそこを通り過ぎて少し走ると見慣れた風景が──ロードサイドに大型の量販店が立ち並ぶ、あのどの地方にも見られる変わり映えのしない風景──が広がっていた。しかしその見慣れた景色が、疲れた僕の身体には少し優しく映った。
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