おはようございます。今朝のメルマガは、哲学者・苫野一徳さんの特別寄稿をお届けします。
政治利用されるフェイクニュース、コロナ禍で生じたインフォデミック、情報過多が混乱を招き続ける現代社会で、他者との「対話」はどのようになされるべきか。哲学者の苫野一徳さんに、現象学をキーワードに論じていただきました。
(初出:『モノノメ #2』「社会構想のための哲学的思考」)
本稿の掲載された雑誌『モノノメ #2』(特集「『身体』の現在)は、PLANETS公式オンラインストアでお求めいただけます。詳しくはこちらから!
はじめに
この20年あまり、人類史や、人間存在そのものを根底から問い直すことへの関心が、年々、高まりつつあるように見える。
たとえば、宇宙開闢から現代までの歴史を、特定の専門分野を超えて探究する「ビッグ・ヒストリー」の勃興。ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』(1997年)に始まり、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』(2011年)を一つの頂点とする、世界的なベストセラー現象。その間にも、あるいはそれ以後にも、人類史や人間存在そのものの問い直しという動機に貫かれた著作は、枚挙にいとまがない。
最近刊行された、オランダの若き歴史学者、ルトガー・ブレグマンの『Humankind ──希望の歴史』(2020年)は、人間は生来において利己的であり暴力的であるとする人間観を、ことごとく破壊した著作である。近代の経済学や心理学、歴史学をはじめとする学問において常識とされてきた、利己的な人間像、いや、もっと古くは、キリスト教の原罪説から連綿と続く悲観的な人間観を、ブレグマンは種々の論拠をもって反駁する。そして、人間は生来、じつは他者に対して友好的な存在なのではないかと問いかける。
日本に目を向ければ、国家と資本主義を揚棄し、「互酬性の原理」を──太古におけるそれをより高次にした形で──回復せよと訴える柄谷行人の『世界史の構造』(2010年)や、斎藤幸平のベストセラー『人新世の「資本論」』(2020年)などがすぐに思いつく。いずれも、来るべき社会のビジョンを提示しようとする試みである。
木島泰三の『自由意志の向こう側』(2020年)にその動向は詳しいが、人間に「自由意志」などあるのかという、いかにも古臭い問いに、いままた哲学的、科学的注目が集まっている背景にも、ブレグマンと同様、「利己的」な人間像を突き崩したいという動機があるのかもしれない。いや、むしろよりラディカルに、近代的な「主体性」の概念を脱構築したい動機と言うべきだろうか(「主体」の解体というテーマ自体は、いわゆるポストモダン思想の、すでに半世紀以上続いてきた一つの決まり文句ではあるが)。わたしたちは、自由意志を持ち、主体的にこの世界を開拓しうる存在ではなく、いわばもっと大きな〝自然〞の一部に過ぎないのではないかという、人間存在の問い直しである。
1.有限性の時代
かつて見田宗介は、カール・ヤスパースの言う「軸の時代」になぞらえて、現代を「軸の時代Ⅱ」と呼んだ。*1「軸の時代」──見田が「軸の時代Ⅰ」と呼び直すもの──とは、いまからおよそ2500年前、ソクラテスやプラトンをはじめとするギリシア哲学や、孔子や老子に代表される中国思想、そしてユダヤ教や仏教など、「普遍思想」が世界同時多発的に発展した時代のことである。
その特徴を、見田は「無限性」の発見に見る。この時代、とりわけ貨幣経済の開始と発展を背景に、人類は、それまでの限定的な部族生活からより広い世界へと飛び出していくことになった。そしてその結果、人びとは世界が「無限」であることを知るに至ったのである。それはある種の〝おののき〞を伴う発見でもあった。
しかしそれから2500年、人類は、この「無限」の世界をほぼ開拓し尽くした。そしてついに、新たな局面に到達した。すなわち、世界は「無限」などではなく、じつは「有限」であったことを知るに至ったのである。いま、わたしたちは新たな〝おののき〞の中にいる。人類史における新たな時代、すなわち「軸の時代Ⅱ」の始まりである。「無限性の時代から有限性の時代へ」。10年以上前に見田が論じたこの人類史的転換は、当時においてもほとんど〝常識〞的な見方ではあったが、今日ではいっそうグローバルな〝常識〞となった。経済成長の限界や世界的な格差の問題、すなわち資本主義の限界もそうだが、とりわけ地球環境の限界は、いまや小中学校においてさえ日常的に議論されるテーマである。
だれも確かな先を見通すことのできない、このような時代においては、人類史の問い直しに加えて、人間存在そのものの問い直しもまた、喫緊の課題として認識される。いや、むしろ、人類史の問い直しを一つの方法として、人間存在そのものが問い直されることになる、と言った方が正確だろうか。「無限性」の時代において、人は己の欲望の赴くままに、世界を切り開いていけばよかったかもしれない。しかし「有限性」の時代において、わたしたちはもはやそのように生きることはできそうもない。ならば人間は、これから、自らの利己的な欲望をいっそう制御せねばならないのではないか? いや、もしかしたら、人間は本当のところ、生来、利他的な存在なのではないか? 奪い合うのではなく、分かち合うことのできる存在なのではないか? 人類同胞に対しても、わたしたちを取り巻く自然に対しても。
2.「事実」から「当為」を直接導出する誤謬
しかしこうした問い直しのブームの中で、わたしは哲学者として、長らくある問題を感じてもいる。人類史や人間存在を根底から問い直そうとする論者たちの多くは、ひょっとして、ある思考の罠に陥ってしまってはいないだろうか、と。少なくとも、より原理的で強靭な哲学的思考を、わたしたちはもっと十分に自覚し共有すべきなのではないか。人類の叡智がこれまで以上に問われるいまだからこそ、わたしは、これからの人間のあり方や社会を構想するための根底をなす思考の方法をこそ、問い直したいと思うのである。
というのも、多くの論者が依拠、あるいは前提しているのは、かつてマックス・ヴェーバーが社会構想において禁じ手とした、「事実」から「当為」を直接的に導く思考法であるからだ。*2おそらくは、ほとんどの場合、無自覚に。
ある「事実」(とされるもの)を根拠に、「当為」(〜すべし)を直接導出するこの思考法には、極端な例として次のようなものがある。「○○民族は劣等民族である。したがって、殲滅されるべきである」。「重大犯罪を犯す者の脳には、ある共通構造がある。したがって、そのような脳構造を持った者を子どものうちに見つけ出し、あらかじめ矯正教育を施すべきである」。「学業成績の個人差のうち、約50%が遺伝の個人差で説明される。したがって、優秀な遺伝子を持つ子どもを前もって選び出し、国家の教育予算の大半をその子たちの教育に充てるべきである」……。
一見してこの思考法の危険性は明らかだが、単なる危険性だけでなく、この論法には三つの原理的な誤りがある。
一つは、そもそもこの「事実」なるものを、絶対に正しい「事実」と主張することはできないという点である。あらゆる科学的言説が仮説である以上、その事実を絶対的に確証することは不可能である。「○○民族は劣等民族である」などと、わたしたちはいったい何を根拠に言い切ることができるだろうか。
二つは、万が一この「事実」が正しいと言えたとしても──再び、それは原理的に不可能なことだが──だからと言って、その「事実」だけを根拠に、たとえば「○○民族」や「ある脳構造を持った子どもたち」の自由が抑圧されることを正当化する理由にはならないという点である。そもそも、「事実」なるものは無数に存在する。その中から、なぜある一つの「事実」だけが特権化され、しかも当の人びとの欲望や意志に反した当為を強要することが許されるのか。
三つ目の誤りは、そもそも論理的に言って、このような「事実」と「当為」の関係そのものが、きわめて恣意的であるという点である。「○○民族は劣等民族である」から、なぜ、「したがって、殲滅されるべきである」が直接導出されるのか。なぜ、「したがって、守られるべきである」や、「したがって、教育の機会が保障されるべきである」ではないのか。両者の結びつきは、論者が何を主張したいかによって、いくらでも恣意的に操作できてしまうものなのだ。
むろんわたしは、来るべき未来社会を構想する近年の論者たちが、ここまでナイーブな議論をしていると言いたいわけではない。しかし多くの場合、その論の立て方は、つきつめれば「事実」から「当為」を導出するものなのである。少なくとも、そのことに十分に自覚的でなければ、社会構想のための言説は説得力を持ち得ないし、時に大きな危険性さえはらみかねない。
いわく、「地球環境はもはや限界を迎えている。したがって、資本主義を揚棄せねばならない」。「人間は、そもそもにおいて互酬的な存在である。したがって、互酬性の論理で社会を作り直すべきである」。「人間は、生来、他者に友好的な存在である。したがって、そのことを前提に社会を構想すべきである」。「自由意志など存在しない。したがって、自己責任論は廃棄されなければならない」……。
これらの言説は、結論自体にはいくらかの妥当性がないわけではないかもしれない。しかし論理的には、先に見た脆弱性と危険性をどうしても免れない。
わたしの考えでは、これらの結論は、本来、次の問いに必ず支えられなければならない。すなわち、「わたしたちは本当にそのような生、社会を欲するのか?」。さらに、「もし欲するのであれば、それを可能にする条件は何か?」。
これらの問いをないがしろにした時、わたしたちは、ある「事実」(とされるもの)を前提としたいわば「全体主義」と、隣り合わせの思想を掲げてしまうことになりかねない。すでに、環境保護活動等に対する「環境ファシズム」との批判も見聞されるが、これは当の活動家たちにとっても不本意な批判と言うべきだろう。しかし「事実」から「当為」を導出する思考法に無自覚に依る限り、このような批判は残念ながらつねに妥当性を持つ。
他方、「わたしたちはどのような生、社会を欲するのか?」という問いは、「事実」から「当為」を直接導く思考法とは決定的に異なるものである。ここで言う「事実」が、その正しさを原理的に証明し得ないものであるのに対して、「わたしたちはどのような生、社会を欲するか」については、わたしたちが自らのうちで必ず確かめることができるものであるからだ。したがってわたしたちは、無自覚の独善に陥ることなく、自らの欲する社会のあり方を、互いに問い合い、確かめ合いながら、探究していくことができるようになるのである(この思考法の原理性については、後でさらに詳しく論証することにしたいと思う)。
そんな悠長なことが言ってられるか。そう、思われるかもしれない。確かに、わたしたちが欲する社会のあり方を、各々がゼロベースで対話するとなると、時間はいくらあっても足りないだろう。
しかしだからこそ、哲学が、長きにわたって叡智の数々を蓄積してきたのだとわたしは言いたい。しかも後述するように、その最も原理的な〝答え〞は、すでに哲学史において一定の水準で見出されているのだ。わたしたちはいったいどのような生、社会を欲するのか? この問いについては、人類が血で血を洗う争いの果てにつかみ取った〝答え〞がすでに示されている。ならばその原理の上に乗り、わたしたちは今日的課題を力強く乗り越えていくべきなのではないか。むろん、この原理(答え)の妥当性それ自体もまた、たえず吟味し直しながら。
今日的課題。たとえば、地球環境の危機は、確かにすでに「待ったなし」なのかもしれない。利己的な人間を前提とした資本主義社会は、もはや限界なのかもしれない。しかしそれでもなお、わたしたちは、そのような「事実」(とされるもの)を特権化し、そこから「当為」を直接的に導いてはならない。むしろ、これら「事実」(とされるもの)を一つの思考の材料としつつ、より根源的には、「わたしたちは本当に資本主義の揚棄を望むのか?」「地球環境への配慮を最優先とした世界を望むのか?」「自己責任論を廃棄した社会を望むのか?」そして何より、「そもそもわたしたちはどのような社会を欲するのか? それを可能にする条件は何か?」と問い合う必要があるのだ。
社会運動は、それとは異なる価値観の持ち主の目には、時に「独善的正義」の押し付けに映りかねない。19世紀の哲学者ヘーゲルは、『精神現象学』において、そうした正義の人を「徳の騎士」と呼んだ。確かに、正義の人ではある。しかし一歩間違えれば、それは異なる価値観の持ち主を正義の名の下に断罪し攻撃する、独善的な騎士に成り下がってしまうのだ。
事を動かすには、時にそのような運動力学も必要なのかもしれない。しかし少なくとも、学的言説においては、そのような力学は禁じ手とされなければならないとわたしは思う。いや、運動の論理においてさえ、それが真に共通了解可能なものであることを志すなら、わたしたちは次のような対話を重ねる必要があるのではないか。「わたしたちが欲するのは、このような生、社会ではありませんか?」「もしそうなら、それを可能にする条件を考え合いませんか?」。たとえ明示的ではなかったとしても、未来社会構想においては、このような思考法や対話法をこそ、根底に敷き続ける必要があるのだ。
3.条件解明型の思考
先述したブレグマンは、『Humankind ──希望の歴史』において、「トマス・ホッブズの性悪説VSジャン=ジャック・ルソーの性善説」という問いを立てた上で、最終的にルソーに軍配を上げている。
ホッブズは、人間は生来、利己的で暴力的な存在であると考えた。それに対してルソーは、人間は生来、利他的で他者に対して友好的な存在であると考えた。ブレグマンに限らず、これは世間一般の通説であろう。
ブレグマンの狙いは、科学的に示された、利他的で友好的な人間という新たな人間像を提示することで、来るべき未来社会を、より利他的で寛大なものとして構想することにある。そのような社会構想のための対話へと、人びとを誘うことにある。
わたしたちは長らく、人類は生来において悪であるという思い込みのために、予言の自己成就よろしく、この社会を必要以上に利己的なものにしてしまったのではないか。そのようなノセボ効果──プラシーボ効果の反対の効果──を、働かせてしまったのではないか。そうブレグマンは言うのだ。
ブレグマンの目論見は、十分に成功しているようにわたしには思われる。スタンフォード監獄実験や、ミルグラムの電気ショック実験など、人間の生来的な利己性や暴力性を明らかにしたと称するさまざまな研究を、説得力ある論拠をもってことごとく破砕し、むしろその反対の結論を導いていく筆致は見事であるし、痛快ですらある。何より、とにかく刺激的な面白い本である。
しかしその一方で、ブレグマンが、ホッブズを性悪説、ルソーを性善説と単純化してしまった点に、わたしはある問題を見出さずにはいられない。ブレグマンの功績からすれば、それは些細な問題と言うべきかもしれない。しかし別の見方をすれば、きわめて重大な問題だとも言える。というのも、この問いの立て方は、ホッブズとルソーの哲学の、最も重要な本質を見誤らせてしまうものであるからだ。そしてその本質こそ、「事実」から「当為」を直接導く思考とはまるで異なる、真に鍛え抜かれた哲学的思考法なのである。
「わたしたちはどのような生、社会を欲するか? それを可能にする条件は何か?」
先述したこの思考法こそ、ホッブズやルソーにおいて貫かれているものなのである。
『エミール』(1762年)の有名な冒頭において、ルソーは、「万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる」と、確かに一見、性善説らしきことを言っている。しかしこれは、作品の冒頭で「神」への敬意をルソーなりに表したというにすぎず、彼の諸著作をつぶさに読めば、その思想の本質が、この箇所にはほとんどないことは明らかである(言うまでもなく、当時のヨーロッパにおいて神の存在は大前提である。ただしルソーは、それをキリスト教の神とはいくらか違うものとして描き出したために、カトリック、プロテスタント双方から敵視され、『エミール』は発禁処分に、さらに彼自身にも逮捕状が出され、逃亡生活を余儀なくされることになるのだが)。
ルソーの思想の本質は、人間は生来、善か、悪か、などと問うところにはない。そうではなく、どのような条件を整えれば人は善(他者に対して友好的)となり、またどのような条件を整えれば悪(他者に対して攻撃的)となってしまうのかと問うものなのである。 同じく『エミール』において、ルソーは、人間は「自己愛」を持つ存在だが、そのこと自体は善でも悪でもないと言う。むしろ、どのような条件が整えばこれが過剰な「自尊心」となり、他者に対する攻撃性を生んでしまうのかと問うのである。それはたとえば、過度の比較や競争の中に投げ入れられ続けることで起こることであると彼は言う。
あるいはまた、人間は他者への「あわれみ」を持つ存在だが、やはりそのこと自体は善でも悪でもない。ルソー主義者のロベスピエールがフランス革命においてそうしたように、虐げられた者(貧者)への「あわれみ」が絶対化された時、それは支配する者たち(王侯貴族)の虐殺を正当化するだろう。その一方で、もしもわたしたちが、身分的、人種的、経済的格差を縮小し、「対等な人類」という感度をいっそう共有することができたなら、わたしたちの持つ「あわれみ」の感情は、多様な他者への「思いやり」として、より広範囲に広がっていくことになるだろう。
ホッブズも同様だ。彼が、人間は自然状態においては「万人の万人に対する戦争」状態に陥ってしまうと言ったのは、人間は生まれつき暴力的で利己的であることを主張したかったからではない。統治が十分でなく、人びとが生存や生活の不安を抱えるところにおいては、すなわち、全面的な不安競合という条件下においては、暴力原理が発動してしまうことを主張したのである。
これをわたしは、哲学的思考の初歩にして、また同時にきわめて重要な、「条件解明型の思考」と呼んでいる。*3わたしの見るところ、ホッブズもルソーも、このことにきわめて自覚的である。
さらに重要なのは、ホッブズもルソーも、社会構想の土台に、「わたしたちはどのような生、社会を欲するのか」という問いを置き、そのような社会を実現するための条件を明らかにしようとした点である。ホッブズは、もしもわたしたちが「万人の万人に対する戦争」をなくしたいと欲するのであれば、どのような条件を整えればよいかと問うた。*4ルソーは、もしも人間が「自由」に生きることを欲するのであれば、どのような条件を整えればよいかと問うたのである。*5
このような「条件解明型の思考」に基づく彼らの理論について、わたしたちは、その理論を後追いして自ら〝確かめる〞ことができる。わたしたちは本当に、普遍戦争状態から脱したいと欲するのか? 本当に「自由」に生きることを欲するのか? ならばそのための条件は何か? このことを、わたしたちは自らにおいて〝確かめる〞ことができるのである。これは、同じく「社会契約説」の理論家の一人であったジョン・ロックが、人間はそもそも神から人権(所有権)を与えられているという前提──事実(と主張されるもの)──からその理論を説き起こしたのとは対照的である。
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