リサーチャー・白土晴一さんが、心のおもむくまま東京の街を歩き回る連載「東京そぞろ歩き」。前回に引き続き、増上寺周辺を歩きます。
徳川将軍家の墓所がある増上寺ですが、現存する文化財は再建されたものも少なくありません。現存する建築物と地形から、当時の風土を探る白土さんの眼が光ります。
白土晴一 東京そぞろ歩き
第14回 JR浜松町駅から芝大門、増上寺へ 〈後編〉
芝の街歩きの続き。
芝名物とも言える芝大門を抜け、そのまま東へ向かうと、通り沿いに小さな駐車場がたくさんあるのを見ることが出来る。
この地域はオフィス街で、停められているのは営業用らしき車両が多い。付近に警察署もあるので、路上駐車が難しい場所でもあるし、駐車場の需要は高い土地だと思う。
しかし、この駐車場群が他の地域と違うのは、ほとんどが寺院が経営していることだろう。ほとんどの駐車場が、本堂や庫裏などの寺院の建物と併設するように駐車スペースが作られている。お寺や神社が自らの土地で事業を行うのは珍しくないが、都心のオフィス街付近にあるお寺は、わずかな空間でもこのように利用して駐車場を経営していることが多い。
そのため、ここ芝はお寺の数が多いのだ。
昭和 16 年の「大東京區分 芝區詳細図」(日本統制地図株式会社)で戦前のこのあたりを見ても、この周辺に寺院マークがたくさんあるのが分かる。
▲著者蔵
山内寺院というのは、簡単に説明すれば、大きなお寺の境内にある小さなお寺のことで、方丈(長老僧侶の居室)、学寮(僧侶の学問寄宿所)などなど、それぞれが独自の役割と由来を持っている。
例えば、現在の港区区役所の通り沿いにある常行院は、増上寺の法主が天台宗の僧侶をわざわざ招くにあたって創設された山内寺院である。
こうした山内寺院の中には特定の大名と関係を深めているお寺もあり、寄進などを受けその大名家の宿坊や江戸登城前の支度場所などとして機能していたものもあった。
明治時代になって増上寺の境内の多くが上地(政府による接収)されたが、これらの山内寺院は宗教法人として今も多くが存続している。
江戸時代に大名の貸していた空間を、今では周辺会社などに駐車場として貸しているというのも、ある種の芝地区の歴史的な連続性を感じなくもない。
そう考えると、芝のお寺の塀には「空車」の張り紙をよく見ることがあるが、これも歴史的な背景込みで考えると、なかなか感慨深い。
この門は、江戸時代には増上寺の中門(楼門と本殿の間の門)であったが、実は二代目で最初の門は慶應16年(1611年)に徳川家康の命で建立されたが、大風のために倒壊し、11年後の元和8年(1622年)に現在の二代目門として再建された。 再建されたものと言っても、都内有数の古い建造物でもある。
三戸二階二重門、入母屋造、朱漆塗という威容を誇る門で、明治や大正でも東京の名所としてよく観光ガイドや絵葉書の題材になっている。
▲芝公園案内図より この巨大な三解脱門の下を通ると、これまた巨大な増上寺の大殿本堂が現る。
下は、絵葉書の昭和期の消失前の増上寺大殿。
▲著者蔵
この緩やかな傾斜の地形は、大殿の後ろ側にある徳川将軍家墓所だともっと見てとれる。
この痕跡は、芝公園南側の古川沿いにある前方後円墳である芝丸山古墳を見るとより顕著になっている。
しかし、近くを流れる古川で削られて出来た台地の崖であることを今でも感じることが出来る。
文政3年(1820年)に「江戸城内并芝上野山内其他御成絵図」の中で描かれた芝増上寺を見ても、川で削られた台地の舌状のような場所に増上寺が建設されているのが分かるだろう。
現在増上寺には、特に6人の将軍とそれぞれの正室の墓所が設置されている。
▲徳川将軍家墓所の鋳抜門
将軍家の墓所ともなれば、初代の家康が祀られた日光東照宮の規模とは言わないまでも、将軍一人ひとりにもっと大きな霊廟があったとしてもおかしくない。実は、今は無くなってしまったが、かつてこの将軍たちにはそれぞれ荘厳な霊廟があったのである。
再び前述の昭和16年の「大東京區分 芝區詳細図」を見てみる。
特に北側は、広大な敷地を有している。
現在この場所がどうなっているかを確認するために、三解脱門を出て日比谷通りを北に向かって歩くと、そこには西武グループの東京プリンスホテルが。
しかし、このプリンスホテルが建てられる以前は、ここに将軍家の広大な墓所が存在していたのである。この敷地の中には各将軍ごとに当時では最高の建築技術が投入された霊廟が建設され、日本中の大名が寄進した石灯籠が数千も立ち並んでいたらしい。
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