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今朝のメルマガは、『宇野常寛コレクション』をお届けします。
今回取り上げるのは、幻となった「2020年の東京オリンピック」についての2014年時点の展望です。
新型コロナウイルス危機がなければ、まさに開幕したてだったはずの東京五輪。目下、開催は2021年に延期されていますが、もはや1964年の高度成長期のような「国民が一つになる」夢が実現不能なことが誰の目にも明らかな状況のなか、この祭典をめぐって、私たちは何を考えるべきだったのか。開催決定当時の空気感とともに、改めて再確認してみてください。
※本記事は「楽器と武器だけが人を殺すことができる」(メディアファクトリー 2014年)に収録された内容の再録です。

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宇野常寛コレクション vol.27
裏オリンピック計画

 僕がオリンピックの誘致について最初に意識したのは、今年の春に代々木の第一体育館で行われた東京ガールズコレクションに出かけたときだ(僕は職業柄、こうしたガラでもないタイプのイベントにも出かけたりするのだ)。そのまるで90年代で時間が止まったような、「流行」も「時流」も東京のマスメディアと広告業界が創出し、発信できるのだという(僕らからすると申し訳ないけれど時代遅れに見える)自信にあふれた空間に、眩暈がしたのを覚えている。
 そんな中で、特に僕がぎょっとした──ほとんど嫌悪感すら覚えた──のが、会場に設置された東京オリンピック誘致への国民の賛意を訴える「広告」パネルだった。そこにはいわゆる「テレビタレント」と「スポーツ文化人」たちが、「(五輪招致が成功したら)私、〇〇〇〇は〜します」という「公約」が、ただし限りなくジョークに近いものが掲げられていた。たとえばお笑い芸人の浜田雅功(ダウンタウン)は「開会式のどこかのシーンで見切れます」と、女子サッカー日本代表選手・澤穂希は「銀座のホコ天でサッカーの試合をします」と、掲げている。僕はこういう遊び心を悪いとは思わない。しかし、この広告を一目見た瞬間にどうしようもなく白けてしまった。はっきり言って、サムかった。タレントのホラン千秋は「ちょっとの間、ゴリン千秋に改名します」と「公約」を掲げていたが、基本的にテレビを流しっぱなしにするという習慣のない(気になる番組だけを録画で見る)僕は彼女が何者なのかも分からなかった。その状態で「ドヤ顔」でつまらないダジャレを目に観させられても、何というか反応に困るしかない。そして何より、僕がウンザリしたのはこの企画(「楽しい公約プロジェクト」というらしい)を考えて実行した人たちは、いまだにテレビや広告が「世間」をつくることができて、人気者とそうでない者との差をつくることができて、そして世論をコントロールすることができると思っていることだ。誰もがテレビを見て、テレビタレントを「人気者」として認知する「世間」に所属していると思っているのだ。
 もしそんな世の中が持続しているのなら、広告屋もテレビ業界も昔のように羽振りがいいはずだし、コミックマーケットもニコニコ動画もボーカロイドも普及していない。テレビに出ない(出られない)ライブアイドルのブームも起こらない。もはや、誰もが家にいる間はお茶の間のテレビをつけっぱなしにして、そこで扱われていること=世間の出来事という「前提」を共有しているのは社会の半分でしかない。いまだに20世紀を生きる、旧い日本人だけだ。そんな自明のことが頭に入っていない(もしくは目を逸らしている)人が税金で報酬が支払われるプロジェクトの広報を担当して、大手を振って歩いているのだ。(結果的に招致は成功したからいいようなものの)五輪招致の、国内に対する広報戦略で重要なのは招致反対派を抑え込むことだ。招致には現地住民からの「支持率」がものいうという。このとき重要なのは「(僕のような)特に五輪自体に関心はない、したがって大反対ではないけれど、面倒なのでできれば来ないでほしい」と思っている層を明確な「反対」層に育てないことだ。しかし、こういう広報戦略は、オールドタイプのマスコミたちの勘違いは間違いなく僕たちのような層の反感を育てるだろう。実際、僕はその日から以前より強く、五輪には「来ないでほしい」と考えるようになった。

 少し調べてみると、2020年の五輪招致には1964年のそれを反復し、高度成長の頃の日本を取り戻したいという願望の物語が強く伴われていることに気づいた。当然と言えば、当然のことだろう。人間は過去の成功体験に引きずられる生き物だ。戦後社会のしくみが行き詰まっていることを認めることなく、景気さえ上向けば抜本的な改革は必要ないと考えたがるオールドタイプたちにとって、オリンピック景気はどうしても期待したくなる。もちろん、景気はいい方がいいに決まっているし、とりあえず景気が良くならないと何も手を付けられないのも分かっている。しかし、いい加減日本は『プロジェクトX』『ALWAYS 三丁目の夕日』的な「あの頃はよかった」教から脱出すべきではないか。
 亡くしたものの数を数えながら、過去の成功体験に逃げ込んで現実から目を逸らす人々を加速させるのなら、五輪は来ないほうがいい。僕はずっとそう考えていた。しかし、五輪はやって来てしまった。
 招致が決定したあの日──僕はこう考えていた。五輪が「来てしまう」のはもう覆せない。それはもはや個人の好悪の問題ではない。だとすると、2020年に五輪がやってくることを「利用」して、どうこの国の社会と文化を再生するのかを考えたほうがいい。2020年の東京オリンピックが、20世紀の重力に魂を引かれた古い日本人たちの「希望」になり得ているのは、1964年のそれが(半ば結果的に)そう機能したからだ。復興から高度成長への大逆転を象徴し、その後の経済発展がもたらす明るい未来をイメージさせるイベントになったからだ。現在に至る首都圏の都市インフラの整備を加速し、カラーテレビの普及をもたらして来るべき「テレビの時代」の下地を整えたからだ。だから彼らは、何の根拠もなく「またオリンピックさえ来てくれれば」と心のどこかで思っている。
 だとすると、僕らがやるべきはこの2020年のオリンピックを旧い日本人の思い出を温めるものから、新しい日本人の希望になるものに変えていくこと、奪い取っていくことではないか。


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