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ニッポン放送アナウンサー・吉田尚記さんと、評論家・PLANETS編集長の宇野常寛が、80年代〜現在に至るまでの「メディア」とそれを取り巻く状況の変遷について語り合いました。12月22日(日)まで、限定で無料公開中です!
※本記事は、2015年9月17日に配信した記事の再配信です/構成:中野慧

「業界内輪ノリ」がテレビをつまらなくしている

宇野 前回の対談は松井玲奈の卒業がテーマでしたけど、今回は当代随一のラジオパーソナリティであるよっぴー氏と「テレビ」「ゲーム」「アイドル」をそれぞれの時代に対応したメディアとして語ってみたいと思います。 まず、少し前の話になってしまうけれど7月にフジテレビ系で放送された「27時間テレビ」が面白くないということで炎上していましたよね。僕は個別の具体的な演出がどうとかには一切興味がないし、もっと言えば1秒も見ていない。なので、内容に関してあれこれ言う権利はないし、そもそも関心がない。だけど、ネットでの炎上の仕方も含めたメディア論に関しては言いたいことがたくさんあるわけです。

このあいだの「27時間テレビ」のキャッチコピーは「本気になれなきゃテレビじゃないじゃん!!」だったわけですが、あれって実は1981年の「楽しくなければテレビじゃない」という、フジテレビが快進撃を始めた80年代当時のコピーのもじりですよね。つまり「上り調子だったあの頃を取り戻そう」というのが大きなテーマになっていて、往年の名プロデューサー・片岡飛鳥さんの総指揮のもとで、起死回生を狙ってやっていたものだったんだけど、結果として「内輪ネタが寒い」ということで炎上してしまった。

だけどそもそも、今までフジテレビがつくってきた文化って、『笑っていいとも!』から『とんねるずのみなさんのおかげでした』に至るまでずっと「内輪ネタ」だったと思うんですよ。

吉田 そうですね。フジテレビはまさに「内輪ネタ」発祥の地と言えると思います。

宇野 その「内輪ネタ」の構造って、要するに「東京テレビ芸能界とその周辺の人たちが楽しそうに騒いでいるのを毎回中継して、視聴者みんながそれを羨ましがる」というものだったと思うんですよ。 少し長いスパンで考えてみると20世紀って、新聞・ラジオ・テレビなどのマスメディアによってかつてないほど大規模な社会の運営が可能になった時代だったわけです。その20世紀の後半になってテレビが登場して80年代に最盛期を迎えた。世界的には1984年のロサンゼルス五輪が「元祖テレビオリンピック」と言われていて、画面を通して世界の最前線と繋がる実感を何億人もの人に与えた象徴的な出来事だった。

要は80年代には「メディアが社会を作る」という前提が広く共有されていた。だからこそ、「メディアを作っている人たちやメディアの中の人と繋がれる」ということが、人々が世界の中心と繋がることを実感できる回路だったわけです。なかでもフジテレビ的な「内輪ネタ」は、人々が憧れる対象としてすごく強力で、とんねるずのスタッフいじりや『笑っていいとも!』の芸能界内輪トークもすべてそういう機能を果たしていた。『笑っていいとも!』的なだらだらとした「半分楽屋を見せる」内輪トークが、視聴者に「ギョーカイ」の一員であるかのような錯覚をもたらす効果があったわけですよね。 「もしかしたら私たちもあの内輪に入れるかもしれない、入りたい」という「テレビ幻想」ともいうべき願望を人々から引き出すことで、フジテレビは「80年代=テレビの時代」の象徴的な位置に登り詰めていった。

しかし2015年現在の「テレビ離れ」って、それまで情報環境的に決定されていたテレビの優位がネットの登場によって崩れたことによって引き起こされたわけです。そんな状況下で、80年代当時の手法に回帰するなんて自殺行為にも等しいですよ。

吉田 僕は、そういうフジテレビ的な手法の限界をわかっていてあえて突っ込んでいったんじゃないかという気がしたんです。「やりきってしまうことでちゃんと終わらせよう」というわけですね。 もう、ここまでの騒ぎに発展してしまった以上は来年も同じようなことはできなくなった。つまりリノベーションを行う前段階の、最後の一手だったんじゃないかと思うんです。

宇野 うーん、リノベーションのためだったら、最初から「内輪ネタ」テイストをゼロにしたものをやったほうが潔かったんじゃないかと思うんだけれど。

吉田 それは難しいところで、「過去の手法をちゃんとやりきりました」ということを示さないと視聴者を納得させられないということがあるんじゃないかな、と。

「フジテレビの時代」だった80年代はもう戻ってこない

宇野 でも、それって視聴者というよりも作っている側の自意識の問題でしょう。もともとフジテレビ的な手法の特徴のひとつって、「楽屋を半分見せる」ということがあると思うんですよ。つまり半分演出として、テレビの裏側を見せることで親近感を煽るというもの。80年代にはそれこそ糸井重里から秋元康まで、時代を代表するクリエイターたちがこぞってこの手法を採っていて、その中核がフジテレビだったと思う。

だけど現代って、たとえばうちのインターン生がカフェの店長をやっていたんだけど、彼が尊敬する村上春樹に「村上さんのところ」でカフェ経営について質問したら普通に春樹本人から回答が返ってきたりする時代ですよ。もう、メディアの送り手が繊細なコントロールで半分だけ楽屋をチラ見せする、とか「あえて」内輪のグダグダトークを披露する、とか、そんなテクニックなんか使わなくても、単に本人が少しでもレスを返せばそれで送り手と受け手はつながってしまうし、そのほうがお互い楽しいことも明らかなわけですよね。でも、フジテレビは昔の「楽屋を半分見せる」という手法を何のアップデートもせずにやり続けている。その無意味さに、作り手側があまりにも無自覚なんじゃないか。

吉田 僕はいままさにフジテレビの「アフロの変」でレギュラーやっているんですけど、ちょうど「27時間テレビ」の週に番組のイベントがあったんです。で、それが抜群に素晴らしかった。ここ最近、すっかりテンプレ化して面白くなくなっていったロックフェスとかよりもはるかにアツい光景が繰り広げられていたんです。

このイベントがなぜアツかったかというと、他の場所で活躍の機会を与えられていないグループがいて、この人たちに触発されて、そんなに勝負しなくてもいい人たちも「負けていられない」と必死になってガチンコ勝負が展開されていたんですよ。 なかでもベッド・インというユニットがいて、彼女たちは80年代バブルをモチーフに古臭い下ネタを言いながら、なかなかカッコよく演奏するんですよ。彼女たちがバブルをネタにしているのは80年代を嘲笑するためではなく、今もっとも「ダサい」ネタにまっすぐ突っ込んでいくことで時代の突破口を開こうとしているからなんじゃないかと思うんです。他にもバブルをネタにしているパフォーマーでは芸人の平野ノラさんのような人も出てきていますが、彼女たちのパフォーマンスを見ていると、すごく「自由」な気持ちが生まれるんですね。

要は何か閉塞感を感じているときに、そのコアにまっすぐ突っ込んでいくことがヒントになるんじゃないかと。「27時間テレビ」もそれと同じことに挑戦していて無残に失敗してしまったけれど、いまのフジテレビのなかに僕は確かに変革の萌芽を感じているんです。

宇野 よっぴーは「破壊のあとの創造」の可能性を見ているわけですよね。半分は同意するけれど、一方で僕は「フジテレビ的手法」への批判はまだ徹底されきっていないと思う。 たとえば僕自身もテレビバラエティに何度か出演しているけど、もうつまらない番組のパターンってのが確固としてあってさ、大体そういう番組って床に座ってカンペをめくっているADが「ガハハ、ガハハ」と大げさに膝を叩いて笑うことで無理やり雰囲気を作っているわけ。

芸人やMCの司会がすべて「テレビ的」なテンプレになっていて、もうなにもかも予定調和でまったく面白くないんだけど、なんとかしてみんなで面白いふりをして楽しそうな雰囲気だけ無理やり演じてごまかしている。 何度か聞いたことあるんですよ、番組ディレクターに「あなたたちは本当にこういう番組構成で面白いと思っているんですか?」と。そしたら、「テレビ的にはどうしてもああいうかたちになってしまうんですよ……」という答えが判で押したように返ってくるんですよね。テレビバラエティの世界にはそうやって習い性で仕事をしてしまっている人が多すぎるし、そのことはもっと厳しく指摘しないといけないんじゃないか。

吉田 テレビ番組に出演する芸人さんや司会って、「この人を呼んでおけば安心だろう」というある一定の枠から「誰でもいいから」とブッキングして番組を作ってしまっているのは事実ですよね。

もし尖った出演者ばかり集めて数字が取れなかったら「なんでもっとわかりやすい有名人を連れてこなかったんだ!」と言われてしまうけど、同じように視聴率が取れないにしても「この人を呼んだのに視聴率取れませんでした」と言い訳をあらかじめ確保しておけば安心できるわけです。怠慢だって言われるのが怖いがゆえに、どうしてもテンプレ的な番組になってしまうんですよね。

宇野 あらゆるテレビ局やテレビ制作会社は、80年代から90年代の20年で培われたある種のテレビ芸人のMCというか、「イジり芸」というものが非常にローカルなコミュニケーション様式で、それをやればやるほど心が冷え込んでいく日本人がどんどん増えていっていることをちゃんと理解すべきでしょう。ああいった「テレビは内輪ノリで回さなければいけない」という勘違いを正さないかぎり、いまテレビを見ていない人は将来的にも見るようにならないですよ。

吉田 おっしゃるとおり、「テレビを一生見ない」という人が普通に存在する時代が来たんだと思います。その「テレビを一生見ない人」を増やしたのは自分たちのやり方だったんですよ。「この人を呼んでおけば安心だろう」というタイプの有名な芸人さんを呼ぶにしても、その人のポテンシャルを活かしてまったく別のすごいことができるはずなのに、決してそこに挑戦しようとしないわけです。 基本的にテレビをはじめとしたメディアの本質って、「なくても誰も死なない」「誰もやらなくてもいいことをやっている」というところじゃないですか。だからこそ本当は大胆にもなれるはずなんだけど、多くの人が適当な仕事で済ませてしまっている。それならいっそ幕末期の江戸城無血開城のように、今までの徳川幕府的な古臭い手法をやりきって「ダメでした」ということをちゃんと世間に示した上で、新しいことに挑戦していくしかないのかな、と。僕は、今回の「27時間テレビ」で意図的にああいうことをやった人のなかからすごいものを作る人が出てくる可能性は十分あるんじゃないかと思いますし、そこに期待したいんですけどね。

宇野 僕がいまのテレビに提言したいことをまとめると3つあって、 (1)「テレビ的」という言葉の使用禁止 (2)芸人的おまかせMC(+ADのガハハ笑い)禁止 (3)内輪ウケ禁止 です。 よっぴーが言うように、芸人的なコミュニケーションにしても、それがあくまでローカルなものであることをわかっていればすごく効果的に使うこともできる。「アメトーーク!」が良い例で、要するに芸人的コミュニケーションが内輪ノリであるという、そのこと自体を戯画的に見せることで外側の視聴者を巻き込むことに成功しているわけですよね。最低限、ああいったかたちでの工夫ぐらいは見せて欲しい。

〈公共〉を体現しようとしない現代のテレビ業界

宇野 ただ、それとは別にもうひとつ気になるのが、ここまで僕らが指摘してきたことってあくまで〈手法〉の問題じゃないですか。でも実は〈手法〉ではなく、〈イデオロギー〉の部分でテレビ的価値観はもはや完全敗北してしまっている気がするんです。

たとえば携帯電話会社のCMって全部辛いじゃないですか。ソフトバンクの「白戸一家」はある種のパイオニアだから許せる部分もあるけど、次々に作られていった続編や亜流になるとイタくて見ていられない。auの桃太郎とかぐや姫シリーズとか、docomoの「ドコモ田家」なんかもああいったテイストに近いですよね。トヨタ・クラウンのたけしさんやキムタクのCMも同じで、見た瞬間に「俺は絶対にトヨタ車には乗らない」と決意させるだけの寒さがある。

ああいったものって、日本に暮らすすべての人間がテレビ芸能人をリスペクトしているという謎の前提をもとに、それをイジることが粋(いき)であるという東京のクリエイターたちの思い上がりがああいった演出を生んでいるわけですよ。

テレビが最盛期だった80年代って、高度成長を達成しオイルショックも乗り越え日本経済が絶好調で、その経済的な余裕を背景にして東京のクリエイターや業界人たちが遊び心に溢れた自由な表現を生んでいった時代だったと今では思われている。

でも、実は日本人のマジョリティはまだ『おしん』(1983~84年放映)に涙していた時代だったわけですよ。そういうマジョリティの泥臭さを一蹴するように、チャラい人たちが楽しそうに仕事をしていた時代だったからこそ「クリエイター幻想」が成立していたに過ぎないでしょう。そういう前提を抜きにして、80年代当時の感覚で2010年代にテレビ番組やCMをつくってしまうことの意味をもう一度問いなおしたほうがいい。

吉田 テレビの人たちって、広告代理店的なモードが社会から遊離したものであるってことに気づいていないんですよ。宇野さんのいう「チャラい」モードって、要するに「マジにならないでやりすごそうよ」という考え方だと思いますけど、それって本当はすごく気持ちの悪い生理だと思うんですよ。そういう「マジになることを否定する」というのがいまのテレビ業界の「病」のひとつですよね。

宇野 そもそもテレビ番組って、テレビ局が放送法で特権を与えられている以上は何かしらの〈公共性〉を担保しなければならないはずなんです。しかし彼らがやっていることは自分たちが「世間」をつくっているんだという時代錯誤の思い上がり以上のものじゃない。

吉田 民放の番組が今みたいになってしまったのって、NHKが体現している〈公共〉のあり方があまりにもパターンとして小さすぎるということもあるかもしれないですね。

宇野 まあね(苦笑)。

吉田 「NHKがああいうお堅い感じだから、俺たち民放はチャラチャラして世間のリアルとのバランスを取っているんだ」という反動を生んでいるとも言える。要するにNHKにしても民放にしても、〈公共〉として想定している範囲があまりにも狭すぎるというのが問題なんじゃないかと思っていて、本当はもっと多様な〈公共〉どうしが競争し合う状態が望ましいわけですよね。

ソーシャルメディアではなく、マスメディアこそが担保すべき公共性とは

吉田 いま〈公共〉が実現するべき価値ってダイバーシティ(多様性)が一番大きいわけですよね。そしてそのダイバーシティの実現をビジネスモデルとして回していくということがまだ全然できていない。

宇野 そこで言うと、ヒントはいくつかあると思っていて、テレビが一番面白くて文化的に批判力があった時代って、実は今よりも多様性が確保されていたわけじゃないですか。たとえばテレビ黄金期の深夜番組って、今ほどコンプライアンス(法令遵守)の圧力も厳しくなく、どちらかといえば治外法権的に自由に実験的なことをやることができた場所だったわけですよね。

吉田 テレビ業界って80年代〜90年代前半ぐらいまで、東大生が入ったら本人も周囲もガッカリするような業界だった。でも今は東大生がテレビ局に就職できたら本人も親も周囲も万々歳でしょう。テレビがそういうふうに社会的にも広く認められるような既得権的な世界になってしまったら、面白いものを生み出すのは難しいですよね。

宇野 「いま実験的なことをやりたいならネットで勝手にやってればいいじゃん」と言う人もいるだろうけど、僕は必ずしもそうとは言い切れないと思う。やはり、テレビやラジオのような公共の電波を通して、交通事故のように多様なものに出会える回路をきちんと確保しておくことが必要だと思うんですよ。

少し遡って考えてみると、テレビが日本で普及し始めたのは50年代からだけど、その当時テレビに求められた役割って「バラバラのものをひとつにまとめる」というものだったわけですよね。言い換えると、いまテレビがつまらなくなっているのは、成立期のイデオロギーにどうしても縛られてしまうからだとも言える。

ここ2、30年で、「バラバラのものをひとつにまとめるのではなく、人々がバラバラなままでも共存できるように社会にダイバーシティ(多様性)を実装していこう」という方向に社会変革のイメージが変わってきたわけだけど、そのときに必要とされる「テレビに必要とされる公共性」って、これまでのテレビのイデオロギーに縛られないもっと多様なものを想定していいはず。 では、そんな時代にテレビは何をすべきか。普通に考えたら多様性という面でテレビは他のメディアにかなわない。じゃあ、何が仕事かというとたとえば、「もっと野菜を食べましょう」とか「過度の喫煙・飲酒は良くないですよ」「リボ払いはやめましょう」とか、「オレオレ詐欺に気をつけましょう」とかそういった〈最低限知っておかないと人生が不利になるようなこと〉の周知だと思うわけです。

これって当たり前のことのようでいて実は重要なことで、このメルマガで予防医学研究者の石川善樹さんに連載してもらっているけれど(『〈思想〉としての予防医学』)、そこで石川さんが言っていたことが面白かった。曰く、アメリカでは喫煙防止キャンペーンがかなり成功していて、それはテレビCMなどでキャンペーンを打ったのが効いたんだ、と。つまりタバコを吸う人は年長者に多くて、彼らのライフスタイルはテレビ視聴に紐付いているから、そこで禁煙の啓蒙キャンペーンをやることが効果的であるっていうことだと思うんです。テレビが担うべき〈公共性〉って、そういう周知ツールとしての側面が大きいはず。

吉田 石川さんが『最後のダイエット』でおっしゃっていたことって、要は「自分の友達とダイエットするな」ということじゃないですか。

たとえばAさんという人がいて、その友達がBさん、Bさんの友達がCさんだとする。AさんからBさんに「一緒にダイエットしようよ!」と呼びかけてもお互いに痩せられるようになる可能性は低いけれど、AさんとCさんがダイエットし始めればBさんのライフスタイルも変わってきて、自然にみんな痩せることができるというわけですよね。

これをメディア論に読み替えると、AさんとBさんのあいだはネットが繋いでくれるけれど、AさんとCさんが同じ価値観を持つようになるためには、テレビやラジオのような放送メディアが大きな役割を果たすってことだと思うんです。

宇野 AとCを繋ぐためには、普通に考えれば「ソーシャルメディアでいいじゃん」ってことになると思うんだけど、現状のソーシャルメディアはまだ未発達でそこをカバーできていない。その不備を補うものとしてテレビを使っていくべきということですよね。

やっぱりこれからの〈公共〉って、巨大な興行を打って人々の関心をひとつに染め上げることではなく、人々がボードから転げ落ちて死んでしまわないようにするためにあるべきなんじゃないかと思うわけですよ。

吉田 その「新しい公共性を担保する」という意味で、僕はNHKの『ためしてガッテン』が一つのモデルケースかなと思うんですよ。『ためしてガッテン』の何がすごいかというと、今までの常識と逆のことを言うんですよね。たとえば「今までは傷はすぐに洗えと言われていたけど、湿潤で治したほうがいい」ということをやっていて、ちゃんと科学的な検証を添えて、しかも誰でもわかるようなかたちで提示しているんです。要するに仮説と論拠とその先の伝達まで全部できている。『ためしてガッテン』がそれをやることで、本当に傷の治療法とか変わったりするわけで、これこそが〈公共性〉だと思うんですよ。

よっぴーが『なぜ楽』で書かなかったこと

吉田 このあいだ、イギリスで結婚して日本に帰ってきて仕事をしている人に会ったんですよ。彼が言っていたことで印象的だったのは、イギリスって異常にラジオを聴く人が多くて、「好きなラジオDJは誰?」という質問が普通に成立するらしいんです。日本はとてもそんな状態じゃないですよね。

宇野 そこで言うと、僕は吉田尚記が『なぜ、この人と話をすると楽になるのか』(以下、『なぜ楽』)の次に書くべき本があると思うんですよ。

僕は『なぜ楽』のメッセージって、「人間のコミュニケーションは絶対に自己目的化していくものなのだから、それを攻略するテクニックをちゃんと知ろう」「コミュニケーションというゲームの気持ちよさや面白さを知った上で初めて、他者にメッセージを伝えることができるようになるんだ」ということだったと思うわけです。

だけど、いま多くの人が気になっているのは、あの本を普通に実践したときに生まれる、コミュニケーションは上手いけど中身のない「意識の高い学生」のような存在とどう向きあえばいいのかという問題じゃないか。そういう「コミュニケーションのためのコミュニケーション」に呑まれずに、自分が伝えたいメッセージをどう他者に伝達していくのか、ということがいまいちばん人々の知りたいことなんじゃないかと。だとすると、そこに比重を置いた応用編が必要なんじゃないか。

たとえば前回、松井玲奈卒業をテーマに対談したときによっぴーは「ラジオパーソナリティに必要なのは、やたらとものを知っているということ」と言っていたじゃないですか。それって『なぜ楽』のロジックからは出てこないものだと思うんです。

吉田 あの本は8回やったニコ生がもとになっているんですけど、文字起こしが36万字あって本には10万字しか使っていない。残りの26万字は何を話しているかというと、ずっとリテラシーの話をしているんですよ。

で、『なぜ楽』では「自分のようなコミュ障の人がラジオパーソナリティになってしまって大変だった」ということは書いているんですけど、「誰でもパーソナリティになれます」とは一度も書いていない。何でかというと、大多数の人はみんなの生活に直接役立つ産業に従事していて、ラジオのような「嗜好品産業」に就いているわけではない。だとしたら「コミュニケーションのゲーム」を攻略するだけで十分なんじゃないか、ということなんですね。

宇野 僕がFMで喋っていて思ったのは、ほとんどのFM番組のパーソナリティは喋っていないということ。つまり、放送のコンテンツの中身は楽曲が埋めていて、パーソナリティは「自己目的化したコミュニケーション」の部分を担当しているだけなんじゃないかと。テレビも同じで、コンテンツの部分は「業界幻想」が担っていて、残りは「コミュニケーションのためのコミュニケーション」しかない。

そうではなく、いま求められているのは、コンテンツとコミュニケーション、つまり「思想」と「伝達の手段」が一体化した番組やメディアのありかただと思うんです。で、よっぴーの『なぜ楽』は、明らかにそこをゴールとしているはずなのに、書いてないなと思ったわけです。

吉田 まあ、「解説されても難しくてわからない」と言われちゃうからその部分は本に収録していないということはありますよ。ただ、テレビというメディアって、「わかりやすい」とか「テレビはみんなのもの」という固定観念に囚われすぎていますよね。「みんなのもの」である必要は全然ない。テレビはなくても困らない嗜好品でタバコと一緒なわけですけど、「みんなのタバコ」というものはありえないですからね。

宇野 僕は横山由依ちゃんのファンだけど、彼女が「オカレモン」(『めちゃ×2イケてるッ!』でナインティナインの岡村隆史が演じるキャラクターの被りもの)を被っている写真とかを見ると悲しくなるわけ。ここまで出世してよかったなと思う反面、オカレモンを被るんだったらもう僕が応援する必要はないんじゃないかと思ってしまうし、ほとんどの由依ちゃんのファンも同じことを思っているはず。

逆に、「テレビバラエティ文化=世間」と思っている人たちにとってAKB48ってものすごく野蛮な新興勢力に映っているはずだし、由依ちゃんがオカレモンをかぶることを快く思っている人もいないでしょう。つまりオカレモンとAKBの組み合わせって誰も幸せにしていないと思うわけ。

吉田 そこで言うと僕は松井玲奈のTwitterって秀逸だったなと思っていて、彼女は「23歳最後の皆さんへの姿はまさかのれなれもん」って書いていた。しかも、「#お兄ちゃんに自慢するんだ #オカレモン世代」というハッシュタグを付けていた。つまり、オカレモンを被るにしてもテレビ的なものへの距離の取り方が非常に上手かったと思うわけです。

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もちろん彼女はその場その場の状況に対応してやっているんだけども、自分のなかにミッションがなければこういうことはできないし、そういった「自分のなかのミッション」を可変可能なかたちで持っていた方がいいと僕は思っている。だけどそういう話って、たしかに『なぜ楽』には書いていないんですね。

90年代、ゲームは「総合芸術」の王者だった

宇野 80年代のバブル経済と結びついたテレビ全盛期って「楽しくなければテレビじゃない」というチャラチャラしたモードがあって、それが現代のテレビ業界にもずっと受け継がれてしまっているわけだけど、ポストバブル期の90年代前半には「それが大事」「愛は勝つ」モードというか、マジなものへの「ベタ回帰」が起こっていたと思うんですよ。

で、今は90年代前半の揺り戻しとは違ったかたちで、どちらかというと作り物ではない「マジなもの」のほうを、みんなは求めていると思うわけです。「マジなものから切り離された文化空間が東京の一角にはあるんだ」という幻想よりも、「楽しいこと」と「世界をポジティブに変えていくこと」がちゃんと結びついていて「真剣に生きるに値することがこの世界のどこかにある」という幻想を、いまの人々は求めているような気がしている。

吉田 前回の対談で、宇野さんは「今の時代において、アイドルこそが〈世界の全体性〉を記述できる」と言っていたじゃないですか。かつて90年代に小沢健二が「昔だったらきっと文学をやっていたけど、この時代だから音楽をやっているんだ」と言っていたけれど、現代では要するにそれが「アイドル」になっている、という話になりましたよね。今回はその宇野さんの言う「〈世界の全体性〉を記述する」ということがどういうことなのか、深堀りして聞いてみたいなと思っていたんです。

宇野 これは順番に説明しないといけないんだけど、まず、誰もが人生のなかで考えるのが「個人がどう生きるか」ということですよね。それを考えるためには、「この世界は地図で表すとどういうものになっているのか」ということ、次に「その地図がどういう仕組みで動いているのか」という記述があり、「じゃあ、この世界をどう生きていったらいいのか」「その世界を変えていくためにはどんなアイデアがあるか」という見取り図を描いていくというのが「〈世界の全体性〉を記述する」ということだと思うんです。

時代をかなり遡ると、たとえばキリスト教の聖書がそういう機能を果たしていたと思う。世界のあり方から、その世界に対しての個人の向き合い方まで、世界像から生き方や内面の問題までをカバーするものとしてあったわけです。

19世紀であればドストエフスキーの作品群のように「総合小説」というものがその役割を担っていて、「映像の世紀」と言われる20世紀であれば映画やテレビがその座にあった。で、僕やよっぴーのような1970年代生まれにとっては、おそらく「ゲーム」がその位置にあった。ゲームには物語があり、音楽やビジュアルがあり、ルールがあって、さらには身体的な経験でもある。ゲームはそういう多様化したメディアや体験をひとつに「総合」するものだったわけじゃないですか。

おそらく小島秀夫(『メタルギアソリッド』)は時代が違えば絶対に映画監督になっていたはずだし、飯野賢治(『Dの食卓』他)も小説家になっていただろうし、水口哲也(『スペースチャンネル5』『Rez』他)は音楽家になっていたはず。90年代は〈世界の全体性を記述できるもの〉として「ゲーム」が存在していたから、彼らはゲームクリエイターになっていった。僕らの世代があんなにゲームに期待していたのも、〈世界の全体性〉を記述する「総合芸術」としてのポテンシャルを感じていたからなんですよね。

吉田 たしかに、僕らの世代にとってゲームは絶対的な位置にあった。今ではゲームがサブカルチャーの1ジャンルに収まってしまったので、2000年以降に思春期を過ごした子たちには、この感覚はあんまりピンとこないでしょうね。

宇野 たとえば『高機動幻想ガンパレード・マーチ』(2000年)って、ゲーム史に残る名作のひとつとしてあるじゃないですか。僕自身はそこまで評価しているわけではないけれど、あの作品は名作とされるだけの批判力を当時持っていたと思う。『ガンパレ』って要は様々な乱数を組み込んだ擬似的なネットワークゲームとして成立していて、それによってゲームというものの面白さを極限まで高めていた。

でもちょうど同じ頃に僕はケーブルテレビを契約してブロードバンドでネットに繋いだんですよ。そのときに「ソフトとしては『ガンパレ』よりもインターネットエクスプローラーの方が面白いんじゃないか?」と思ったんです。つまりインターネット上での人間の活動のほうが乱数供給源として面白いんじゃないか、と。

その後ブロードバンドが普及して、実際に『ポケットモンスター』や『ドラゴンクエストIX』のように日本ゲームのキラータイトルは広義のネットワークゲームになっていき、そして象徴的な出来事としてゼロ年代後半の『モンスターハンター』の大流行があったんだと思うんです。

吉田 そうか、『モンハン』って人間という別の乱数供給源を組み込んだシステムなわけですね。

宇野 それが実は『PLANETS vol.7』の裏テーマでもあったんだけど、2010年代を迎えた現代、「現実」という究極の乱数供給源を組み込んだゲームだけが生き残っている。その究極系がたぶんアイドルですよ。 たとえば今ではすっかりアイドルプロデューサーになってしまった濱野智史ってものすごいゲームオタクなわけです。青春期にFFVIIに感動しFFVIIIに激怒した彼が、『前田敦子はキリストを超えた』という本を書き、その後アイドルをプロデュースするようになったのってものすごく必然的なことだと思うわけ。

吉田 子どもを見ていても、発達段階でそういうルートを辿っている感じがしますね。いきなりアイドルにハマる子はいないけれど、最初にゲームにハマってその後にアイドルにハマっていく。

宇野 そして90年代のゲームバブルって、やがて2000年代以降、端的に言うとインターネットの登場によって急速にしぼんでいった。インターネットがゲームを上回る総合性というものを、ゲームが唯一弱かったインタラクティブ性を武器にして、テキストも音楽も映像もすべてを取り込んでいった。

ゲームはPCからコンシューマ機へ、そして携帯ゲーム機へとその中心を移していったわけじゃないですか。そしてやがてはiPhoneのような多機能携帯電話に収斂されていくんだけれど、その過程で人々の関心がソフト単位から機器そのものへとシフトしていった。僕らのワクワク感の先が、既存のものにアクセスできる「アーキテクチャ」というか「情報環境そのものに萌える」というか、メタレベルにひとつ退行したと思うんです。

ゲームからインターネットへ、そしてアイドルへ

宇野 そうなってしまったときに、人々が個別の愛を向ける対象が失なわれた一瞬があった。その隙間に入ってきたのが僕はアイドルだと思うわけです。つまり、今までは世界の全体性というものを記述するためにはコンテンツというか、虚構を経るしかなかった。世界はとんでもなく広くて複雑だから、虚構を経由すること抜きにして〈世界の全体性〉を体験することができなかったからです。

吉田 アイドルの場合、「ここは見せません」というものがないんですよね。たとえば昔のクリエイターは「素顔を見せない」ままでも成立したけれど、今はもうそれでは作家という役割を担えない。

一方でアイドルと一口にいっても「グラビアアイドル」という存在は昔からいるわけですよね。でもグラビアアイドルって写真集ぐらいしか活躍の場がなかったし、雑誌の表紙を飾ってテレビに出たりCMに出たりして女優になるというこの一本道しかなかった。仮にそのルートではなく、歌を歌ったりしても、すごいひどい曲か、それともこれみよがしに歌唱力を誇るかのどちらかしかなかった。

宇野 昔からいるグラビアアイドルと今のライブアイドルの違いって、虚構を売りにしているか現実を売りにしているかの違いなんじゃないかな、と思う。グラビアアイドルって「普通にはありえないこんなに可愛くてスタイルのいい女の子がいる」という非現実感を売りにしていて、要は「現実からの切断」が肝なわけじゃないですか。一方でライブアイドルというのは「現実の素顔を見せていく」というのが魅力のひとつになっている。

吉田 逆に僕は、虚構性を売りにしている人たちを引きずり下ろす仕事ばかりやっていたんですよね。グラビアイドルはいくら「虚構」であるといってもそれでは生きづらい。だからこそ吉木りさにずっとアニメの話を聞いているみたいな仕事ばかりしていたし、彼女たちも引きずり下ろされたいと思っていたんじゃないか。

中森明夫さんが昔「アイドルは空っぽのほうがいい」と言っていたけれど、今のアイドルは空っぽなのが一番ダメなんですよね。世界を歩いてしまったら、次に右足を出すか左足を出すかが、もうそのアイドルの思想なんですよ。というか、僕らはそこに勝手に思想を見て取ってしまう。

宇野 今のライブアイドルのファンって、自分が言った一言を彼女が憶えてくれていたとか、「このあいだの公演のここがよかったよ」と言ったらすごく喜んでくれるとか、「影響を与える」「自分が関与できる」ということに喜びを感じていると思うんです。

これって要はゲームの問題であって、つまりゲームバブルがはじけた原因として、インターネットの情報テクノロジーによって世界が情報化され始めたら、ゲームとしてみたときに乱数供給源としての現実が一番面白いということがわかってしまった。スーパーマリオとかをやるよりも、Twitterに「腹減った」と書いたら、見ず知らずの人から「どこどこの唐揚げ屋さんがオススメですよ」と返ってくることの方が面白いと思うんですよ。なんで北海道に住んでいるこいつが、こんなに神楽坂の唐揚げ屋に詳しいんだよ、みたいなね。

いま〈世界の全体性〉を記述できるメディアとは

宇野 少し抽象化してまとめてみたいんだけど、この世界の広さに対して人々は、一回抽象化して虚構の中で味わうことでしか納得できなかった。だからこそ20世紀には虚構というものがあんなに力を持っていたと思うわけ。

ところがインターネットのような情報ネットワークの発達で、世界の全体性というものを、個人が把握することはできないけれどデータベースとしてとりあえず記述はされてしまった。Googleストリートビューを開けばとりあえず世界中のほとんどの街にも行けるし、今後はおそらく自然環境も含めてネットワークが覆わない領域はなくなっていくでしょう。

かつて聖書のようなものって、誰もがそれを読めば〈世界の全体性〉にアクセス可能な「物語」として記述されていた。だけどネットワーク時代に実際に記述されるようになった〈世界の全体性〉は、「非物語」的なものであることが明らかになってしまったんです。

僕やよっぴーのような70年代生まれの世代は断片的な体験(=虚構)からどう全体的な世界観というものを作っていくかが大事で、それが人間的な成長であり、個人の思想の成立過程だと思っていた。個人の体験という断片から本来記述不可能な全体性への蝶番になってくれる世界の抽象化装置としてフィクションがあったわけ。

でもインターネットが登場した今はゲームの構造それ自体が変わってしまった。むしろ〈世界の全体性〉というのはスタティックなデータベースとして存在していて、そこにいかにアクセスするかという個人の能動性が問われるようになった。そのことに世界中のコンテンツ屋とか、学生とか、知的産業をやっている人が、いま戸惑っていると思うんです。

すでに世界の全体性はデータベースとして記述されているんだから、世界地図を描く必要はない。むしろ僕らの世界に対しての関わり方、人間がどう歩くかの方がいま問題になっている。でも自分の人生はひとつしかないから、地図は広がっているのに1つの道しか歩けない。だからモデルケースというか「他人の人生を味わいたい」という欲望が強くなってくる。そのときに、浮かび上がってきたのがアイドルという存在だと言える。

なぜならアイドルって一人ひとりの人生そのものをエンターテイメントとしているものだから。〈世界の全体性〉というよりは、「人生」の複数性の方を人々は求めている気がするんですよね。世俗的に、勝つとか負けるとかもそうだし、何を表現するかとか、こんな表現を残すとか残さないとか、人として正しく向き合うとか向き合わないとか、死んでいくということもそう。 ひとつ言えるのは、僕らの世代にあったような「世界を記述したい」という欲望が、今の特に人格形成期の人たちから相対的に弱まってきていて、どちらかというと「他人の人生を代理体験してみたい」という欲望の方が上がっていっているということだと思う。

吉田 それはなぜかというと、自分の人生はだいたいにおいてそんなに面白くないからでしょうね。

宇野 結局、思想形成の時に、世界像を自分の中に作ることよりも、世界へのコミットの仕方を自分の中に作ることの方が人格形成というか、世の中を生きていく上で相対的に大きい課題になっているんだと思う。その時に求めるコンテンツというのも、物語的な虚構よりも、実際に誰か他人が世界にコミットするその過程を全部さらけだすアイドルみたいなものの方が、やっぱり魅力的に映ってしまう。

吉田 おそらくいま50代の世代の方々は、長嶋茂雄や高倉健のように生きていきたいと思っていたんじゃないかと思うんです。一方でいまアイドルを支持している若い人たちは、その視線が自分よりも下の年齢の女の子にいっていることが面白いんじゃないかな、と。

これまでのロールモデルって自分の2、3歩先をいってくれる人だったわけですよね。そこに〈世界の全体性〉という意味が込められていた。それがいまでは、直接のロールモデルではなく「自分が生きてこなかった未体験の可能性」を生きている人に向けられている。

宇野 そう、いわば「可能世界」的な感覚だと思う。

吉田 もちろん自分が10代の女の子であるわけがないんだけれど、だけど「10代の女の子としてこの世の中を生きてきたらどうだったんだろう」というifルートを体現してくれているのがアイドルなんでしょうね。

『WORKING!』とかのキャラクターデザインをしている足立慎吾さんというアニメーターさんがいるんですけど、彼は気持ちとしてもう本当に女の子に生まれたかったらしいんですよ。それは男性が好きとかいうそういった性的な指向ではなく、「女の子という存在としてこの世の中を生きてきたらいかに楽しいか」という感覚が、その人のセンスとしてあるんです。足立さんは本当に普段から婦人服売り場に行って、夢のようにきれいなキャラクターデザインを作るわけです。これってまさにifルートですよね。彼はTwitterで、「本当にこういう可愛い女の子として生まれたかった」「でも来世ではたぶんうじ虫とかなんだろうな」なんて言っていたりする。

宇野 長嶋茂雄とか高倉健とかがロールモデルとして機能していたのって、映画やテレビのような20世紀的なメディアの演出による英雄譚が支援装置になっていたからですよね。一方で現代のアイドルは接触による疑似恋愛がその支援装置になっていると理解すればわかりやすい。

そして僕がもうちょっと突っ込んで話してみたいのが、虚構が人々の欲望に答えなくなってきているということなんです。虚構=コンテンツって、世界の全体性を把握するとかいう不可能なミッションに挑むために、人を感動させ動機づけるという役割があったと思う。だけどテクノロジーによって実際に記述された〈世界の全体性〉って、どちらかというと人を茫然自失とさせるような、非常に静的かつ絶対に個人では処理できない情報量を持ったものだということが明らかになってしまった。そうなってしまったときに、虚構はその存在理由のかなりの部分を失ってしまった気がするんです。

じゃあ、これから人々は何にロマンを掻き立てられるのか。「他人の人生を代理体験する」とか、「自分が不可逆に他人の人生に干渉して変えてしまう」とか、そういうところでしかロマンを感じられなくなってしまったということなんじゃないか、と。

吉田 たとえばクリス松村さんとかマツコ・デラックスさんのような人の人生って相当面白いと思うんですけれど、そこには行かないわけですよね。で、この問題と分離して考えなければならないのは、なぜアイドルにとって「歌と踊り」が不可欠なのかということですよね。このテーマについては次回に持ち越しませんか?

宇野 それともうひとつ、なぜ現代文化において疑似恋愛装置がこんなにも大きな要素を占めているのかという問題もある。このことについても一度しっかりと考えてみたいですね。

(了)

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当日は3部制のトークショーで2019年を振り返りますが、よっぴーさんの登壇は16時〜「2019年をまるごと総括する座談会(文化編)」。天気の子、夏アニメ映画、MCU、鬼滅の刃、さらざんまい、Netflixなどなど、今年を代表するコンテンツについて語り合います。

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