今朝のメルマガは『宇野常寛コレクション』をお届けします。vol.1で取り上げるのは、AKB48の活動を追った2012年のドキュメント映画『DOCU MENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』です。東日本大震災の爪痕の残る被災地で、自衛隊に見守られながら、ヒット曲を熱唱する少女たち――。震災とアイドルという2つの巨大なシステムが、虚構を介在せずに共存する光景から、2010年代の想像力のあり方を思考します。
※本記事は「原子爆弾とジョーカーなき世界」(メディアファクトリー)に収録された内容の再録です。
あの日からもう、一年が経った。2011年3月11日午後14時46分、後に東日本大震災と呼ばれる地震が列島を襲ったそのとき、僕はある仕事のために『大声ダイヤモンド』について考えていた。少女(アイドル)たちが、「僕」という(ファンたちの)一人称を用いて少年の片思いを歌う。主客の消滅した視点から、気になる娘がいるという気持ちそれ自体を、過剰なくらいにめいいっぱい肯定する。「好きって言葉は最高さ」と最後には三回繰り返す。この奇妙なねじれと、気持ちよさ(圧倒的な肯定性)についてぼんやりと考えていたとき、世界が揺れた。
あれから一年、僕が考えていることは大きく分けてふたつある。それはあの日に日本を襲った巨大な力が露呈させたもののことと、あのとき偶然考えていた世界を肯定する力、のことだ。一見、このふたつはまったく関係がない。しかし僕の中ではこのふたつは強く結びついている。いや、結びつけようとしている。僕はいつもつながらないはずのふたつ以上の対象をつなげて考えることで、まったく新しい別の考えが生まれてくる可能性に賭けている。それが「批評家的な」想像力の使い方だと僕は思う。
だから、今回取り上げるのは、この本来つながらないはずのふたつのものを強引に接続してしまった映画にしようと思う。『DOCU MENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』──この春に公開された、AKB48の活動を追ったドキュメント映画だ。
はっきり言ってしまえば、この映画はそれほどよくできたドキュメント映画とは言えない。構成は乱暴で、映像については凝った演出や表現はほとんどない。たとえば前半に挿入される横山由依の談話には何の必然性もなく、構成のバランスを欠く原因になっている(彼女が「2推し」の僕はとても嬉しかったが)。終盤は明らかに駆け足で、レコード大賞から紅白の流れは完全に描写不足であり、申し訳程度に尺を割くならいっそのこと割愛してしまったほうが良かったかもしれない。メンバー唯一の被災者である研究生・岩田華怜のモノローグはやや演出過剰で興ざめに感じる観客も多かったはずだ。しかし、そんなことはもはや何の問題にもならない。なぜならば、この映画が結果的に映している「現実」それ自体が、あまりにも強い力を放っているからだ。
そう、この映画は間違いなく震災後に僕が接した表現でもっとも衝撃的なもののひとつだった。少なくとも、もっとも考えさせられたものではある。「Show must go on」という副題が添えられたこの映画のコンセプトは、単純かつ明快だ。それは震災(及びそれに伴って発生した原子力発電所事故)をAKB48それ自体と重ね合わせること、だ。共にもはや人間の手には制御できないもの、もはやコントロール不可能な圧倒的かつ自律的な存在として両者を重ね合わせること、それだけだ。考えようによっては、それはとんでもなく不謹慎なことなのかもしれない。しかし、この映画は躊躇いなくそれをやってのける。それも、極めて単純な手法で。この映画では冒頭から終幕に至るまで、ただひたすらAKB48のメンバーが被災地を慰問する場面と、(規模的、システム的に)もはや運営側の制御が行き届かなくなった結果次々と公演上でのトラブルやメンバーのスキャンダルが発生していく場面とが交互に映し出される。(そしてその間にメンバーの短いインタビューが挿入される。)たったそれだけで、観客は震災とAKB48という、本来は結びつきようのないふたつの存在を強引に、イメージのレベルで重ね合わせてしまう。もはや誰も制御できない圧倒的な運動、暴走するエネルギー、として。
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