分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第2回。アメリカに亡命して情報科学の土台を築いたフォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキの3人に通底する「オーストリア的」な知の脈絡とは? その探求は、19世紀のドイツ統一運動以降の中欧諸邦の大学制度と学派形成へと遡っていきます。
「オーストリア哲学」とは何か
「オーストリア哲学」という言葉をご存知だろうか? 哲学では、「フランス哲学」や「東洋哲学」のように、国や民族、地域の名称を冠した分類がよく用いられる。「オーストリア哲学」もその一つである。とはいえ、この言葉を聞いたことのある人は専門家の中ですら、かなり少ないはずだ。ドイツやフランスといったヨーロッパの大国ならまだしも、オーストリアは人口一千万にも満たない小国であり、独自の言語があるわけでもない(主要言語はドイツ語である)。同じヨーロッパでも、例えばベルギーやポルトガルの人口はオーストリアより多く、一千万を超えているが、「ベルギー哲学」「ポルトガル哲学」という言葉が使われることはない。どうして哲学ではオーストリアが特別視されるのだろうか。その理由は、前回の連載でも少し述べたが、かつてのオーストリアが大国だったからである。
オーストリアが大国だったということは多くの方はご存知かもしれない。かの有名なマリー・アントワネットはオーストリア出身であり、その母マリア・テレジアはハプスブルク家の支配下にある諸国を統べる「女帝」であった。また、オーストリアの首都のウィーンは、特に音楽では現在でも文化的な中心地の一つである。そう考えれば、オーストリアにもドイツやフランスと同じように「〜哲学」と称されるものがあることはそれほど不思議なことでもないように思われるかもしれない。だがじつは、「オーストリア哲学とは何か?」という問題は、なかなか複雑な背景を持つ答えにくい問いなのである。
今回は、この問いを中心に、「オーストリア的」ということの内実を明らかにしていく。そのためには、しばらく世界史、そしてそれに翻弄されるドイツの大学制度と哲学について話をしなければならない。どうかお付き合い願いたい。
19世紀のオーストリアとドイツ
時は1814年のウィーン会議に遡る。オーストリアによるフランス革命への干渉を機に、全欧州を揺るがすナポレオン戦争の猛威が吹き荒れたのち、ウィーンに列強首脳が集まり、戦後体制についての話し合いが行われた。しかし議論は遅々として進まず、「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されたことは有名だ。会議の終了は翌1815年。その結果、フランスではフランス革命で処刑された国王ルイ16世の弟、ルイ18世の即位が認められ、ブルボン朝が復活する。
ウィーン会議の議長は、戦争による神聖ローマ帝国の解体を受けて1804年に成立したオーストリア帝国の外相メッテルニヒ。会議の結果、オーストリア帝国の版図は、現在のオーストリア地域に加え、ヴェネツィアを含むイタリア北部、チェコ、スロバキア、ハンガリー、スロベニア、そしてガリツィア(現在のウクライナの一部)まで広がることになり、当時のヨーロッパ諸国の中で最大の面積を持つ国家になる。
オーストリア帝国の特徴は文字通りの「帝国(empire/imperium)」であること、すなわち、語源であるローマ帝国と同じように、複数の国家・民族からなる大規模国家である点だ。オーストリア帝国は、現在のオーストリア地域に以前から住んでいたドイツ人に加え、上述のように、イタリア人、チェコ人、スロバキア人、ハンガリー人、スロベニア人、そしてポーランド人(ガリツィアは1772年の「ポーランド分割」によってオーストリアの支配下に置かれる前まではポーランドの一部であり、前回の連載で登場したウィーンの数学者メンガーの父もガリツィア出身である)など、母語が異なる様々な民族から構成される多民族国家だったのである。ドイツ人は支配的な地位を占めていたし、公用語もドイツ語だったが、数の上では1/5程度に過ぎなかった。
▲オーストリア帝国の版図(1815年)(出典)
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