今朝のメルマガは、成馬零一さんの特別寄稿です。私たちはテレビドラマの登場人物を、なぜ演者の名前で呼ぶのか。〈虚構〉と〈日常〉の中間に位置する日本のテレビドラマの特性と、それを逆手にとった『マジすか学園』や山田孝之のドキュメンタリードラマなどの作品について考えます。
※初出:『美術手帖』2018年2月号(美術出版社)
テレビドラマの話をする時、いつも気になるのは登場人物の呼び名についてだ。
SNSでドラマの感想を読んでいると、多くの視聴者はドラマの登場人物を役名で呼ばずに、木村拓哉や松たか子といった演じる俳優の名で呼んでいる。
筆者はドラマの記事を書く時、例えば『HERO』(フジテレビ系)だったら久利生公平(木村拓哉)という風に役名の後で俳優名を括弧に入れて記載し、可能な限り役名(この場合は木村ではなく久利生)を主語にして書くようにしている。これはテレビドラマを映像表現として批評しているという意識があるからだ。
しかし、知人とドラマの話をしているときは、役名がすらすらと出てくるということはとても少なく、ついつい「木村拓哉が」とか「松たか子が」と、俳優を主語にして語ってしまう。
そのたびになんだか軽い罪悪感を抱いてきたのだが、最近は、そうやって俳優名で呼ばれてしまうこと自体に「テレビドラマの本質」のようなものがあるのではないかと思い始めている。
なぜ、テレビドラマでは、役名よりも俳優の名前の方が存在感が大きいのだろうか?
おそらくテレビドラマは、映画やアニメといった映像メディアと比べた時にきわめて虚構性が薄い映像表現なのだろう。多くの視聴者はテレビドラマを純粋なフィクションとしてではなく、俳優が役をいかにうまく演じられるのか、そしてその演技力が高く評価されるか? という俳優たちのドキュメンタリーとしても楽しんでいる。
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