本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。今回は、20世紀に文化の中心だった虚構が力を失い、一気に現実へと傾いていく21世紀の現状を整理しながら、「中間のもの」を扱えるインターネット本来の可能性について論じていきます。 (初出:『小説トリッパー』2017夏号)
4 ほんとうのインターネットの話をしよう
しかし、インターネットとは本来もっと異なるもののはずだった。たとえば前述の「PLANETS」vol.8では以下のような議論が展開されている。
映像の二〇世紀と呼ばれた前世紀は、まさにこの魔法の装置によって社会が決定的に拡大した時代だった。
実のところ厳密にはピントすら合っていない人間の目を、意識を通して認識されたものとして誰かと共有することは、本来は不可能なことだ。しかし人類はこの解離した、三次元の空間を二次元の平面に統合するという術を編み出した。三次元の、解離したものを、二次元に統合して共有可能にすること。パースペクティブという論理を用いて造られた虚構を媒介にすることによって、文脈の共有を支援することに私たちは成功したのだ。そして一九世紀と二〇世紀の変わり目に登場した映像という装置は、その平面の完成形だった。現実を平面に整理し、解離した人間の認識を統合した画像が連続し、擬似体験を形成する。このとき人類ははじめて整理され、統合された他人の経験(カメラの視点)を共有することが可能になったのだ。
こうして成立した映像が放送技術と結託することで、二〇世紀の国民国家は広く複雑化した社会の維持が可能になった。しかし問題は映像、あるいは当時の技術が極端なふたつの人間観しか得られていなかったことだ。
たとえば映画とは極めて能動的な観客を想定したメディアだ。劇場へ足を運び、演目を選び、木戸銭を払い、物語を受け止める態勢を整え暗闇の中に静止している。対してテレビは、極めて受動的な視聴者を想定したメディアだ。生活空間内における流しっぱなしを想定し、散漫な意識の中で一瞬だけ注意を引くことに注力する。
この「映像の世紀」における観客/視聴者の対比は、現在の民主主義の制度が想定する人間像に一致する。それは能動的で理性的で意識の高い市民と、受動的で感情的で意識の低い大衆だ。これは同時に上院/下院、参議院/衆議院の峻別でもあり、そしてそのまま映画/テレビが前提とする人間像に相応している。
そう、要するに前世紀までの人類は、極端に意識の高い市民と低い大衆、ふたつの人間像を想定し、それぞれに対応したシステムを並走させ、両者でバランスをとるという発想を根底に社会を形成していたのだ。
しかし、インターネットは本来この中間のものだった。正確には人間の絶えず変化する能動性に対応し得るメディアだった。人間は市民ほど能動的でも、大衆ほど受動的でもない。これまで(二〇世紀まで)は単にそれが技術的に対応できずに極端な人間像をふたつ想定し、それを並走させていただけにすぎないのではないか。
しかしこれからは違う。いや、そうではないやり方を考えなければいけない。インターネットは、そしてその背景をなす情報技術は、本来は中間のものにアプローチできるものなのだから(2)。
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