〈元〉批評家の更科修一郎さんの連載『90年代サブカルチャー青春記~子供の国のロビンソン・クルーソー』、今回は高田馬場編の2回目です。更科さんが美少女漫画雑誌の編集者として働いていた出版社・白夜書房とポルノグラフィの変遷を通じて、80年代のアンダーグラウンドカルチャーが90年代にサブカルチャーに至る流れを振り返ります。
第6回「高田馬場・その2」
高田馬場――神田川沿いのエリアは、貸ビルと古い民家が混在し、住宅街でもなければ商業地区でもない独特の雰囲気がある。
東京の出版社の多くは、新宿区市谷加賀町の大日本印刷と文京区水道の凸版印刷を中心に点在している。人文系だと、神保町の古本屋街――東側へ寄る傾向もある。
本というものは、出版社と印刷所があれば作れるものではない。
どちらかへ内包できない業務を請け負う中小企業が、周辺にいくつも存在しており、「出版業界」という群体を形作っているのだ。
たとえば、00年代にDTPが普及する以前は、電算写植というものがあった。
指定紙を写植屋へFAXで送り、発注すると、職人が電算写植機で文字列を作り、一日数回のバイク便で印画紙が届く。それを漫画原稿へ切り貼りして、版下を作成するのだが、写植屋は印刷所の近くにあるため、出版社が遠くにあるとバイク便の巡回範囲に入らない。単行本ならいざ知らず、月刊誌では致命傷だ。
そう考えると、新宿区内ではあるが、西側の高田馬場にある白夜書房は、かなり辺境の出版社であった。
筆者が勤めていた頃も、比較的部数の多い雑誌は大日本印刷を使っていたが、凸版印刷は使っていなかったと思う。
DTPとweb経由のデータ入稿が普及したことで、そのような土地的な制約はなくなったのだが、電算写植を請け負っていた写植屋の多くは仕事を失った。
では、潰れてしまったのかというと、さにあらず。アナログ漫画原稿のスキャンや組版へ転業し、しっかり生き残っている。
筆者は電算写植を漫画原稿へ切り貼りしていた最後の世代だが、00年代に入ると、DTP化され、原稿をコピーした指定紙に書き込むだけになったので、寂しい気持ちになった記憶がある。
24ページでだいたい一時間ほどかかる作業が省略され、実務負担が軽減されたのだから、喜ぶべきなのだが、若い頃の筆者は完全にワーカホリックだった。
編集部と仮眠室を往復し、タイムカードが一週間繋がっていたこともあった。
特に90年代の筆者は、編集者という仕事に異様な情熱を傾けていた。
何が楽しかったのか、今ではよく分からないが、これも良い機会だ。ぼやけた記憶を遡り、そもそもの動機を確かめてみたい。
話は脱線するが、しばしお付き合い願えれば。
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かつて、ポルノグラフィが新しい文化の触媒となっていた時代――80年代という時代があった。
アンダーグラウンド文化、それ自体は敗戦直後のカストリ雑誌時代から存在していたし、戦前の『新青年』まで遡れるかも知れないが、初期のそれは、ハイカルチャーの息苦しさから逃げるように生まれた「文化的やつし趣味」だった。
高等遊民が怠惰な貧乏生活でナルシシズムを満たすようなそれは、戦前から厳然として存在し続けていたハイカルチャーへのカウンターであり、換骨奪胎していた舶来文化自体が、60年代以降、急激に変化した影響もあった。たとえば、ビートルズとロックの台頭とか。
ただ、70年代までの日本のアンダーグラウンド文化は、ハイカルチャーの存在を踏まえた上での戯れだったように思う。
筆者が勤めていた白夜書房という出版社も、元はそういう会社だった。
『月刊ニューセルフ』や『ウィークエンドスーパー』のような扇情的なエロ写真誌を作る一方で、イタロ・カルヴィーノの小説や人文系の真面目な本も出していた。
これは、澁澤龍彦の薔薇十字社にいた福田博人氏が創業メンバーの一人だったからだが、マイナージャンル同士、互いの要素が交わることで、この時代のアンダーグラウンド文化は形成されていた。
雑誌という媒体が、正しく「雑」誌として機能していたのだ。
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