先週の土曜日(1月26日)、第二回自由報道協会賞の授賞式が無事終わった。

大賞はジャーナリストの大先輩である広瀬隆さん。取材ヘリを寄付で飛ばし、デモの空撮を行ったことが主な受賞理由だが、それ以外にも3.11以降の週刊朝日での連載、あるいはチェルノブイリ原発事故以降の長い原発報道などが受賞理由にあがっていた。

私、個人としてもとても嬉しいし、昨年まで大賞に名前の冠のついていた日隅一雄さんも、あの世で喜んでいるに違いない。

自由報道協会賞は、前回の反省を活かして、各賞選考において第三者も入った選考委員会を立ち上げ、長い時間をかけてノミネートを選び、さらにその中からもっと長時間かけて受賞者(作品)を選ぶというスタイルに変更した。

仮に、日隅一雄さんが生きていれば、きっと選考委員会に進んで参加していただろう。

「上杉さん、私にやらせてください」という声がいまにも聞こえそうなくらいだ。

実際、第一回目の「選考」にも日隅さんは関わっていた。それもあったのだろう、一年前の第一回目の自由報道協会賞授賞式で、プレゼンターとして壇上に上がった日隅さんの嬉しそうな笑顔がいまなお忘れられない。

「こんな無名の私の名前が、自由報道協会の賞、しかも大賞に残るなんて本当に申し訳ない限りです。もっと立派な諸先輩方がいらっしゃるのに――。とても名誉なことで嬉しく感じています。心からありがとう」

その日隅さんとの約束をまさか反故にしなくてはならなくなる日が早く訪れるとは夢にも思わなかった。

今回、自由報道協会はその大賞から日隅さんの名前を外した。その代わり、故人ではあるが特別賞を授与し、日隅さんとの関係を協会として清算することにしたのだ。

協会内部では誰一人望んでいない結論だった。にもかかわらず、自由報道協会は日隅さんの名前を使うことを放棄せざるを得なかった。いったいなぜか?

これから書くことは、いまでもなお私自身、明らかにすべきかどうか悩んでいることだ。