日隅一雄さんとの信頼関係がさらに強固になったのはある「事件」がきっかけだった。ただし、それは私にとっても、日隅さんにとっても哀しい「事件」であった。
自由報道協会で、ダライラマ法王の記者会見を実現するまでには長く厳しい道のりがあった。
協会副代表であるピオ・デミリア氏の存在がなければ、それはまず実現しなかったであろう。また、警備全般を担当した村上隆保氏をはじめ協会事務局、そして、なんといってもダライラマ日本事務所のラクパ氏の理解が大きかった。
中国方面からとも思われる圧力が筆者の身にも及び、会見後ではあったが「暗殺リスト」に私の名前が載っていることも、後に交流事業団体のF代表から知らされて改めて緊張を覚えたものだった。
これ以上の詳細は省くが、とにかく誕生してまもない自由報道協会が、ダライラマ法王の会見を成功させたのはその後の活動も含め、また会員たちの自信を高めるうえでも、非常に大きな意義があった。
しかし、その後、痛恨の出来事(事件)が起こる。それは第一回自由報道協会賞授与式の席上、日隅さんの挨拶がきっかけだった。
「チベットの僧侶のように、経産省前かどこかで焼身自殺でもしてやろうかと――」
2011年の暮れも迫ると、日隅さんの容態は日を追うごとに悪くなるのが見て取れた。そのためか、ときどき日隅さんは死に様をみつけるような弱音を吐くことが多くなっていた。
官邸前や経産省前での「抗議の自死」も、その頃の日隅さんの口癖のようになっていた。
ちょうどそのころ、チベットでは若い僧侶たちが焼身という衝撃的かつ痛ましい手段でもって中国政府への抗議を繰り返していた(現在も続く)。
もとよりチベットの人権問題に理解を示していた日隅さんだからこそ、それが頭の片隅にあったのだろう。
また、自由報道協会の授賞式の挨拶で、いくぶん高揚していたというのもあったのだろう、まさしく原発政策、被曝政策の日本政府の不作為に抗議してきた自らを、チベットの僧侶たちの命懸けの抵抗に重ね合わせ、焼身自殺を引き合いにその点に触れたのだった。
だが、喩えが悪かった。まずは匿名のアカウントがツイッターで「火」をつけた。それに呼応するように、いわゆる「炎上」が始まったのだ。
自由報道協会で、ダライラマ法王の記者会見を実現するまでには長く厳しい道のりがあった。
協会副代表であるピオ・デミリア氏の存在がなければ、それはまず実現しなかったであろう。また、警備全般を担当した村上隆保氏をはじめ協会事務局、そして、なんといってもダライラマ日本事務所のラクパ氏の理解が大きかった。
中国方面からとも思われる圧力が筆者の身にも及び、会見後ではあったが「暗殺リスト」に私の名前が載っていることも、後に交流事業団体のF代表から知らされて改めて緊張を覚えたものだった。
これ以上の詳細は省くが、とにかく誕生してまもない自由報道協会が、ダライラマ法王の会見を成功させたのはその後の活動も含め、また会員たちの自信を高めるうえでも、非常に大きな意義があった。
しかし、その後、痛恨の出来事(事件)が起こる。それは第一回自由報道協会賞授与式の席上、日隅さんの挨拶がきっかけだった。
「チベットの僧侶のように、経産省前かどこかで焼身自殺でもしてやろうかと――」
2011年の暮れも迫ると、日隅さんの容態は日を追うごとに悪くなるのが見て取れた。そのためか、ときどき日隅さんは死に様をみつけるような弱音を吐くことが多くなっていた。
官邸前や経産省前での「抗議の自死」も、その頃の日隅さんの口癖のようになっていた。
ちょうどそのころ、チベットでは若い僧侶たちが焼身という衝撃的かつ痛ましい手段でもって中国政府への抗議を繰り返していた(現在も続く)。
もとよりチベットの人権問題に理解を示していた日隅さんだからこそ、それが頭の片隅にあったのだろう。
また、自由報道協会の授賞式の挨拶で、いくぶん高揚していたというのもあったのだろう、まさしく原発政策、被曝政策の日本政府の不作為に抗議してきた自らを、チベットの僧侶たちの命懸けの抵抗に重ね合わせ、焼身自殺を引き合いにその点に触れたのだった。
だが、喩えが悪かった。まずは匿名のアカウントがツイッターで「火」をつけた。それに呼応するように、いわゆる「炎上」が始まったのだ。
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