十二月一日、突然の訃報が流れた。十六年にわたり巨大組織・山口組の五代目として組織を牽引した渡辺芳則元組長が逝去したのだ。「数こそ力」と二代目山健組組長時代、そして五代目山口組を継承してからも数多くの組織・人材を糾合してきた強力な求心力は如何にして構築されたのか、その足跡を追ってみたい。
昭和三十六年、二十歳の若さで山健組初代の山本健一組長の盃をもらい若い衆となった渡辺五代目。
昭和三十八年に起きた打越会と山村組との〈広島代理戦争(打越会に山口組、山村組に当時山口組と勢力を二分していた本多会が支援)〉に山健組応援部隊のひとりとして広島に送り込まれるなど活躍。昭和四十四年には二十八歳の若さで山健組若頭に抜擢された。昭和四十六年九月に山本組長が山口組若頭に就任してからは本家の業務で多忙な山本組長に代わり山健組を切り盛りし、山本組長から全幅の信頼を得る。
当時、若頭補佐だった司忍六代目(右)とともに
昭和五十七年二月に山本組長が死去すると山健組一門の賛同を得て二代目山健組を継承、同時に山口組直系に昇格した。
二代目山健組組長として、またたくまに「千人軍団」と呼ばれるほどの組織力を構築、将来の山口組を担う男として高く評価された。昭和六十年二月、竹中正久山口組四代目亡きあとの暫定政権で山口組若頭に登用、さらに「山一抗争」を一和会解散、山本広一和会会長引退で完全終結させると、平成元年五月に山口組五代目を継承するのである。直系組長となってわずか七年で頂点に立つという、まさにスピード出世であった。当時四十八歳という若さでもあった。
稲川会の稲川裕紘三代目会長と五分兄弟盃を結び、東西の平和路線の徹底にも尽力、平成七年の「阪神・淡路大震災」では自ら陣頭指揮に立って、本家の大型冷蔵庫にあった食料品や、庭内に掘った井戸水を配給するなど、組員を総動員させ「極道ボランティア」を行ったのである。
その後、渡辺五代目自らにまで及んだ使用者責任問題や突然の休養宣言など業界を驚かせてきたが、平成十七年八月に執り行われた継承式で司忍若頭に六代目を譲り、現役から引退していた。引退という形で自らの極道人生に幕を下ろしたのは戦後の山口組史上はじめてのことであった。
引退後は数多くのプレッシャーから解放され、自適に暮らしていたというが、襲名後十六年間で組織を急成長させてきたその手腕は引退後も語り継がれていた。
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通信時報
通信時報編集部
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