七代目合田一家(山口県下関)
末広誠総長
名門「籠寅」の系脈を受け継ぎ、山口県下関市を本拠地に県下を中心に勢力を張っている合田一家の系譜は、初代合田幸一〜二代目浜部一郎〜三代目浜崎彰〜四代目川崎友治〜五代目山中大康〜六代目温井完治〜七代目末広誠総長と続く。
合田一家の結成は昭和二十三年で、歴史的には戦後派の新興博徒組織だが、その源流は、明治、大正、昭和と、九州の吉田磯吉とともに稀代の侠客といわれた保良浅之助の籠寅組の系譜を引く。保良浅之助の父親は虎吉といって、魚を入れる竹龍づくりの職人であり、その屋号が「籠寅」であった。そしてこの屋号がのちの保良の異名となり、組織名となった。
保良は時代の流れを先取りしながら次々に事業を拡張した。日露戦争直後の明治三十九年にトロ箱の製造拠点として山口県下関市に進出する。同時にヤクザ社会でも着々と地盤を固め、しだいに頭角を現わしていく。
その保良がやがて興行界に進出。浪曲、講談、浪花節、芝居などを手がけ、関西各地で大きな劇場を経営するまでになる。興行のネットワークを利用しながら、その名が全国に浸透する籠寅一家は、事実上、広域組織のようなもので、その組織力は日本のトップクラスだったと言っていい。
だが、そこに大きなライバルが登場する。同じく興行界への本格進出を開始した神戸の二代目山口組である。その結果、両者に深刻なトラブルが生まれ、籠寅の刺客が山口登を襲撃する。山口は一命を取り留めたが、結局この時の傷がもとで絶命することになる。だから合田一家と山口組は、その黎明期にトップのタマを「殺った、殺られた」間柄なのだ。
もちろん現在、両者の間にこの時の遺恨はすでになく、当時を知る関係者も皆無である。
また保良は生粋の博徒というわけではなく、その点で山口組のいい手本になった。山口組田岡一雄三代目は、保良のつくりあげた現代ヤクザのスタイルを引き継ぎ、発展させていったといっていい。
実際、保良が下関―韓国・釜山という海運業界の一大拠点に強力な地盤を形成していたこともあって、当時の流通業界にも大きな影響力を持っていたことは見逃せない。
「籠寅が首を横に振れば、関釜の荷役は止まる」と言われるほど、保良の影響力は絶大だったというから、この点も港湾荷役事業で発展した山口組の姿と重なる。
その後、保良はこうした力を背景に政界へと進出。それに伴い、ヤクザ社会から隠退し、実子である寅之助が籠寅二代目を継承、戦後、その系譜は合田幸一初代総長へと受け継がれる。昭和二十三年のことで、このとき、合田総長は、「名誉ある籠寅の名跡をそのまま引き継ぐ上は、あまりにも恐れ多い」として、あえて籠寅の家名を踏襲せずに、渡世の跡目だけを継承する形で合田一家を興し、代紋も合田一家の代紋に変更したのだった。
末広誠七代目総長が誕生したのは、平成二十一年十月二十日のことである。
合田一家では同年八月二十六日に先代である温井完治六代目総長の引退が発表され、その跡目に一家一門の総意により、末広総長が指名されており、先だって九月五日には盃直しの儀式も執り行なわれていたのである。
後見人に六代目山口組・高山清司若頭。先代・温井六代目総長に引き続き、末広七代目総長の「後見人」を務め、この継承式に列席し、取持人の五代目共政会・守屋輯会長(名代・石井謙二会長代行)も儀式を見守るなか、極東会会長補佐の山本達三・五代目松山舎弟の媒酌によって執り行なわれた。
合田幸一初代の提唱によって結成された西日本独立団体の親睦会「関西二十日会」(解散)は〈反山口組連合〉とみられていたこともあり、合田一家と山口組との間では、ほとんど交流がなかった。だが、温井六代目総長の継承式に際し、当時、五代目山口組舎弟頭補佐で中国・四国ブロックのブロック長を務めていた大石誉夫・大石組組長が「後見人」を務め、友好関係を構築。さらに山口組が六代目体制を発足させた平成十七年には、高山若頭が温井六代目総長を後見するようになった。以後、合田一家は山口組の親戚団体として、司忍六代目の誕生会を兼ねた新年会に招待され、盆と暮れには神戸の本家に挨拶に出向き、また食事会を開くなどして友好の絆を深めてきた。
末広総長は、これらの行事に六代目合田一家若頭として常に温井六代目総長に同行。また山口組の親戚団体の若頭、理事長といったナンバー2が集まる「若頭会」にも出席し、山口組の最高幹部や直参、またその親戚友好団体のトップや最高幹部らと親交を深め、業界では広く顔を知られている。
同年十月二十四日には、末広総長ら七代目合田一家最高幹部が名古屋の二代目弘道会本部を訪問し、高山若頭(二代目弘道会会長)に挨拶し、両団体の絆をさらに深めている。
こうして新体制を発足させた七代目合田一家は、組織のさらなる発展と、業界の平和共存を進めるべく、力強く第一歩を踏み出したのである。
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