勘違いしたブスにむかつかなくなるまで――相対主義の感覚
とつげき東北
これの前の記事(「道徳」や「真理」の相対化の記事)はこちら。
(大学生の頃……2000年くらいに書いた文章です)
「あたしべつに、合コンに来てる男に興味ないし~」
ここは、まさにその合コンの席。男たちに相手にされなかった<ブス女>がふとつぶやく。
恐るべき巨体から発せられたその言葉に、そこにいた男たち全員の顔が引きつった。
「てめードブスのくせに!!」
彼らは心の中でそう叫ぶも、口に出しては言わなかった。
このような何気ない風景の中に<思想>がある。
「神話から現実へ!」に書いた<思想>が、どのように生き方に影響を与えるのか?
理屈でつめた<思想>の先にある<感覚>はどんなものだろうか?
我々の<思想>が、どこに辿り着くのか、あるいは辿り着かないのかをここに示そうと思う。
Ⅰ 我々の<思想>が決して辿り着かないところ
・<思想>の守護者への道
物事の真偽、物事の善悪、その他すべての事柄の判断は各個人の先天的に、個人的に、社会的に、家庭的に、宗教的に、あるいは偶発的に与えられた<信仰>に依拠することはわかった。我々は平均人の通常の感覚とは異なるだろう、一つの知を手にした。「正しいこと」などないのだ、「善悪」など無意味なのだ、と。場合によってはその武器を手に、誰かに道徳についての議論をふっかけ、見事に論破して得意になる人もいるかもしれない。実際のところ、理屈として<絶対>を相対化できるということは、それだけで思想的な意味では非常に大きな<進歩>であるには違いない。多くの平均人はこのもっとも単純な、基本的な思想的作業さえ終えることのないまま一生を終えるからだ。
そして思想の安住を得ることができる。いかなる人間のいかなる理屈も、科学も、思想も、「絶対ではない」と否定して安心し、自分だけの<思想?>にすがって生きていくことができるかもしれない。思想を持っていない人を馬鹿にして自尊心を満足させることもできるかもしれない。
しかし我々の<思想>はそこに辿り着かない。
決して論破されない<思想>がどうしたと言うのだろう? それも「絶対ではない」のではなかったか。同様に絶対ではないもののうちから、自分がたまたま選択した一つを後生大事に抱えて生きることに果たしてどんな意味があろう? その思想を持って死ねるだろうか、あるいは、その思想のために死ねるだろうか。否、我々はもう既に、思想のバカバカしさを知っている。命を賭けるには取るに足りないものであると知っている。絶対ではないものにすがること、<思想>=<信仰>にすがることの無意味さこそ、我々の<思想>が今突き止めたことではないか。もしそんなものに少しでも自尊心を持っているなら、まだ全然思想が理解できていないということだ。
我々は<思想>の守護者にはならない。
・「相対化好き」の凡人、あるいは、思想を忘れた暇人
「絶対ではない」と言って得意げにならないこと。勝ち誇ったように「解釈は多様だ」などと言わないこと。それらは<思想の守護者>のとる態度でしかない。「私はあなたの思想に比べて、自分の思想の方が好きだ」という表明でしかない。自分の思想と対立する他の思想の効力を弱めながら自分の思想に寄りかかり、物分りの良さを気取って得られるものは少ない。
では思想を全て捨て去れば良いのか? その場の快楽、その場の損得のみを行動原理に据えれば良いか? それは一つの明快な解答だろう。そのようにして生きていくことで充分な満足が得られる人はぜひともそうすれば良いだろう。思想にすがるよりはずっと健康的なばかりか、恐らくずっと<正しげな>選択である。
しかし我々の<思想>はそこに辿り着かない。
他人の思想を認めることが何だというのだろう。その狭間に自分の思想を同居させて安心して何が楽しいのだろう。それはまさに<思想の守護者>の行動に他ならない。
一方、思想を捨て去ることは一つの選択肢ではあるが、我々はまだ充分に<思想>を使っていない。その場の快楽、損得を求める「実利的な」行動は、現代においてそれほど重要ではない。つまり、こういうことだ。目の前に積み木がある。諸君はヒマである。その時、積み木をいじって遊ぶかどうかという問題だ。「積み木をいじっても人生の役に立たない」として積み木をさわらないのが、思想を捨てる者の選択した行為である。我々は<思想>に寄りかかることはないが、かと言ってそれをいじらないのはつまらないのではないか? 積み木で遊んでみれば、意外に楽しい暇つぶしになったのではないか? 「人生の役に立つ」ことだけを選択して行為してみよ。豊かな現代、人生におけるほとんど全ての行為は、無駄なものだと気付くだろう。そして無駄なもの(テレビを見ること、ゲームをすること、友達と遊ぶこと・・・etc)こそ面白いのだと気付くだろう。
思想は積み木のように楽しい。綺麗に積み上げて遠くから見て楽しむのもいい。他人の積み木と高さを競争するのもいい。我々がもっとも望まないことは、他人の美しい積み木から目を逸らして無様でちっぽけな積み木細工に満足することであり、あるいは、積み木遊びをやめて仕事一筋に生きることだ。いずれもつまらない。
我々は他人の思想の狭間に安住せず、そして、思想を捨てない。我々は思想を磨き、思想で戦うゲームをし、思想で遊ぶことを欲する。
・理想主義への後退
最悪なケースは、<思想=真偽=善悪>に寄りかかって損することである。「あの思想は間違っている!」「あの行動はよくない!」という憤りを感じることは単純に我々の思想から見て愚昧である。憤りを感じることは人間にとって不快なことであって、不快感を得ることは損なことである。それは要するに理想主義(真-偽という、善-悪という対立のある場所)への後退でしかない。端的に損害をこうむるために思想を知ったのだとすれば、ひどく不恰好である。
我々の<思想>はそこに辿り着かない。
我々はもはや理想主義に舞い戻ることはない。思想に寄りかかることはしない。思想を快楽として楽しみながら進むことが、我々に残された方法ではないだろうか? 様々にある<理想>に鉄槌を打ち付けながら、時には鉄槌を振るう自分の姿をナルシスティックに想像して楽しみ、時には理想が崩れ行く様を見て大はしゃぎし、すべてを遊びに変えてしまえる<力>を、我々は既に手にしたのではないだろうか?
我々は理想主義に後退しない。
・あらゆる「評価者」
もっとも無意味なことは、「(フィードバックされない)評価を与える」ことである。
「評価」とは、自分の<思想=真偽=善悪>をもって、あるものを断罪することに他ならない。「あいつは悪い人だ」と言うのは理想主義そのものである。「評価」を与えて満足することは、我々の思想から見てもっとも間抜けな結末である。
我々の<思想>はそこに辿り着かない。
我々は評価(すなわち、真偽や善悪)ではなく、楽しさや損得といったような<現実的-非神話的>な結果を欲する。自分に高い評価を下したり他人に低い評価を下すことは権力の発動ではあるけれども、権力の向上や楽しさに結びつかない自己満足であるならばそこに意味はない。
我々は評価者ではなく権力の行使者になるのだ。
Ⅱ 我々の<思想>の通過点
・「愚昧さ」の除去
基本的な思想的知を得る、あるいは発見することが充分に早期でない場合、恐らく、様々の「思い込み」が相対化されないまま個人のアタマに残っている。それはちょうど、確率統計を習う前に知った「残り物には福がある」という妄想を、無自覚のうちにふと信じているようなものだ。多くの人は、思想を学ぶ前に知った様々の概念・思考を相対化することを忘れる。だからこそ通常人は初めてまともな思想に触れたとき(それが例えば「神話から現実へ!」のようなロジカルなものであったとしても)、理屈よりもそれまでの「思い込み」(例えば「殺人はよくない!」といったような)を優先しようと四苦八苦し、頭の堅い人はついに自分の信仰に閉じこもる結果となる(<思想的ヒッキー>の誕生)。もしも生まれた直後からまともな思想で教育されていたとしたら結果は違っただろうに。過去の種々の思い込みについて、それを一つ一つ問いただしてみること。「全てのものは絶対ではない」と知ったとき、実際にその知識を行動に反映させ利益を得るためには、無意識に信じているあらゆる<愚昧>を除去する作業が必要となるのだ。
通過点の一つは「愚昧さ」の除去、すなわち、古い知の改定である。
・思考における神話の相対化
我々は今、物事を少しでも現実的に判断する(神話を相対化する)機会を持った。道徳に縛られた判断や、性善説的な馬鹿げた行動解釈ではなく、誰がどんな損得・権力感情に基づいて行為したかを知ることができるようになったわけだ。少年犯罪を「道徳教育で」なんとかしようというような狂った試みのおかしさを指摘できるようになり、その代わりにもう少し上手に自分の子供を教育するための知が得られただろう。世の中のどれだけ多くの「語り」が、せいぜい道徳的愚昧に乗せられただけの非現実的なものであるかがわかるようになった。
たくさんの物事(行為)を分析してみるといい。他人がどう考え、どう行為するかを以前より何十倍も的確に当てられるようになる。
通過点の一つは、思考において神話から開放されることであり、それは我々が新しい知を獲得することを意味する。
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