最近、気になる言葉があります。それはよく人々の話に出てくる「日本は成熟社会だ」という「定説」です。何を持って成熟したと言っているのでしょうか。
政治といえばいつまでも政権交代がメインテーマで、地方分権、経済成長と国際化などの前向きの議論になりません。暴動が起きない安定性は羨ましいのですが、毎年総理が変わる政治は果たして成熟政治でしょうか。
政権ごとに過去への解釈と態度が変わり、両国トップ間の約束を「外交文書にしていない」といって無視するような外交は果たして成熟外交でしょうか。今後誰が日本のトップとの会話を信用するのでしょうか。
企業に未だに「年功序列」、「終身雇用」、「男尊女卑」などの古い風習が蔓延り、若者と女性の才能を活かせない経済は成熟経済でしょうか。企業と個人間に未だに契約書すら存在しない雇用関係は成熟した労使関係でしょうか。
ベンチャー精神が後退し、若者が海外に出て行かず、行動範囲がどんどん小さくなる社会は成熟と言うでしょうか。若者の闘争心と競争心の無さを豊かさのせいにするのは成熟社会の必然でしょうか。
ここ30年間、日本は進化したところがたくさんあります。しかし、それは成熟とはほど遠いものです。それを一番象徴しているのは人間の力にあります。人間の精神がどんどん幼稚化しているのに社会がどうして成熟したと言えるのでしょうか。社会とは人間社会のことではないのでしょうか。
私は「老害」を批判しながらも、尊敬している人の大半は「年寄り」であることに自分も驚きます。よくよく考えて気付きましたが、彼らを昔から尊敬していたのです。年寄りを尊敬しているのではなく、尊敬している人が年をとっただけです。
「暴走老人」にしても「老害」にしても、結局周囲に彼らを止めるだけの力量を持つ次世代のリーダーが居ないから、老人の「暴走」と「害」を許しているのです。成熟すべき世代が成熟しないのだから、社会全体が未熟に向かうのです。
尖閣問題はその典型なのです。「石原さんが買うから、仕方がなく国が買った」というロジックが通じるのは今の日本だけです。「営業部長がやるというから会社が仕方なくやりました」という経営者は成熟した経営者でしょうか。
外国では通じないだけではなく、20年前の日本にもあり得ないことです。重大な外交問題と国策が国政選挙も通っていない一老人に左右されるならば、その国の外交は安定性と信用性がない未熟外交です。
1980年代、石原さんは今と同じように国会でいろいろと奇抜な発言をしたのです。自民党の政治家が「あなたは小説ばかりを言わないで政治家として大説を語ったらどうだい」と一喝したものです。そういう成熟さがあるからこそ、日本は安定政治を維持し、経済成長にエネルギーを集中させたと思います。
我々企業経営者には「成熟経営」を語る人はいません。笑われます。なぜならば企業には成長と衰退しかないからです。成熟は衰退を意味します。
しかし、衰退は決して怖いものではありません。長い旅の中の一休みと思えばいいのです。大切なのは衰退を誤魔化さず、素直に認識することです。衰退を成熟と言って誤魔化しているうちには成長はありません。
明日は人生ではじめて友人の結婚式で仲人を務めます。久しぶりに聞く「未熟者ですが・・・」という新婚さんのご挨拶を楽しみにしています。「未熟」には夢と希望があります。
コメント
同じことを中共にいえば?
「熟」っつーか腐りかけ?
中国人が「成熟」を語ることの限界を示す記事ですね。
非論理的に印象を並べただけだ。
統計を見れば、日本は「成熟社会」でしょう(笑)。