※今号は無料公開版です。

石のスープ
定期号[2013年11月29日号/通巻No.97]

今号の執筆担当:渡部真



 これまでも「石のスープ」で伝えてきたように、東北沿岸部で津波の爪痕を伝える「震災遺構」について、各自治体によって差異が生じています。すでに解体されたもの、保存が決まったもの、扱いが未定なままのもの……。
 そこで、次号で、この数か月の間で撮影して来た震災遺構の現在の様子を、電子書籍版にして紹介したいと考えていますが、その前に、震災遺構と被災地の観光について、コラムをお届けします。
 ※12月6日追記:「次号で」と書きましたが、次々号(通巻no.99)での配信となりました。


■遅すぎた政府の支援策

 10月、宮城県気仙沼市にあった大型漁船「第十八共徳丸」が解体された。それに続いて、岩手県釜石市の「鵜住居防災センター」も年内に解体が決まっている。一方、陸前高田市では、「奇跡の一本松」がすでに保存されて周囲が公園となることが決まっており、他にも「道の駅・高田松原」「下宿定住促進住宅」「気仙中学校校舎」も保存の方向で調整が進んでいる。また、民間の建物である同県宮古市「田老観光ホテル」なども、震災遺構として宮古市が助成する方針を打ち出している。宮城県南三陸町の「防災庁舎」は、一度は解体の方針が打ち出されたが、保存を再検討するという動きがある。同県石巻市の「大川小学校」などは、まだ震災犠牲の検証も終わっておらず、保存・解体の検討も進んでいない。

 そんななかで、10月に宮城県の村井嘉浩知事が、国に対して震災遺構の保存へ具体的な対応を求めた事を受け、11月中旬、日本政府が地元住民の合意を前提に、震災遺構としての整備などにかかる初期費用を復興交付金で手当てする事を明らかにした。
 支援策はおよそ以下の通りだ。
  1)震災遺構と、今後の町づくりの関連性などが的確である事
  2)自治体、地元住民、関係者の合意がある事
  3)被災した各市町村につき1カ所を対象
  4)保存のたまに必要な初期費用の負担
  5)維持管理費は、今回の支援の対象外
  
 この方針が明らかになった翌週、11月21日、釜石市の野田武則市長は筆者にインタビューに対して「方針を出すのが遅過ぎる」と、政府の対応を非難した。

「発表の仕方も悪い。自治体への打診もないまま、いきなり記者会見で発表されてしまっては、地元住民や関係者へ自治体からアプローチする事はできなくなる。それにしても、あまりにも支援を決めるのが遅過ぎる」

 野田市長が指摘するのは、自治体への打診もないままに記者会見で発表してしまうと、地元住民や関係者がニュースを見て知ってしまい、保存・解体のどちらの立場の人達も、少なからず動揺が起きてしまう事を懸念したものだ。野田市長によると、復興庁など政府からは、震災遺構の支援について打診のないままに発表があったという。

 前述した通り、釜石市では「鵜住居防災センター」が年内に解体されることになっている。同センターについては、渋井哲也さんが書いた「9月18日号」(通巻No.91)や、筆者担当の電子書籍版「9月24日号」(通巻No.93)を参照して欲しいが、地元の住民には解体をのぞむ声が多いと言われながらも、保存をのぞむ声も根強くある。

 野田市長は、インタビューの中で
「地元の人たちの中には、『防災センターを見るのが辛いので、鵜住居に行くことができない』という人もいる。そういう地元の声に対して十分な配慮をしなくてはいけない」
と語った。
 11月1日に取材した陸前高田市の戸羽太市長も
「そこで家族などを亡くしたために一人でも悲しい思いをし、『通りかかるだけでも建物を見られない』と、震災から何年経っても、自分の地元に足を運べない人がいるなんて事があってはダメ。いくら観光客が来たとしても、地元の人達が受け入れられなければ復興にならない」
として、市庁舎や体育館など、たくさんの犠牲者が出た建物は、早い段階から解体の方針を決め、実際に1年以内に解体した。
 
 
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[キャプション]陸前高田市・戸羽太市長(11月1日撮影)
 
 震災遺構の建物があった場所で多くの犠牲者が出ている場合は、両市長が語ったように解体をのぞむ声がある一方、遺族の中からも「震災遺構の残して欲しい」という声がある。その多くは、一度解体してしまったら二度とは戻せないという問題提起だ。そのまま保存するからこそ、津波や震災の姿を伝える説得力を持つ。

 また、遺族のなかでは、同じ家族でも意見が違う事だってある。どれが正解というものでもない。


■観光地になるということ

 筆者の地元は、東京都台東区・下谷稲荷町界隈である。
 東には浅草、西には上野、どちらも東京を代表する観光地だが、いずれも徒歩圏内だ。さらに足を伸ばせば、東京スカイツリーや下町情緒溢れる「谷根千」も近い。そして、筆者自身が浅草を中心とした下町情報などを仕事として紹介する形で、地元観光のお手伝いをさせてもらっている。

 筆者が台東区に移転したのは、2000年の頃だ。すぐに江戸開府400年の節目となり、江戸ブームとともに「下町ブーム」が起きた。同時期に「落語ブーム」などもあり、80年代〜90年代には観光地として陰っていた浅草や台東区にも観光客が押し寄せるようになった。

 2012年度でみてみると、台東区の年間観光客数は約4400万人(うち外国人430万人)、観光客が食費や土産など直接的に観光として消費した「観光消費額」は年間約3000億円だ。どちらの数字も15年前から、約1.5倍となった。東京都に訪れる観光客の約10人に1人が、台東区に来ていることになる。

 そんな観光の街を地元にしている筆者からして、観光地に暮らすというのは、それなりにストレスがあるということをよく実感する。

 読者の皆さんは、台東区や浅草の下町をイメージして、何を思い浮かべるだろう。
 「粋で、鯔背で、気っ風の良くて、人情脆くて、義理堅い」
 「ご近所付き合いがあって、住民同士で仲がいい」
 「親切な“おじちゃん”“おばちゃん”」
 「閑静な裏長屋から流れてくる三味線の音」
 「近所には賑やかな商店街があり、おいしいお惣菜に溢れている」
 なんて、こんなイメージがあったりする。たしかに、そういう人もたくさんいるし、そういう面がないわけじゃない。でも、「下町」なんてものは、言い換えれば「東京の田舎町」ということだ。

 「粋で鯔背」なんて人は、ほとんど皆無。そんなのは、どの地域にもある程度ダンディな人がいるのと同じようなもので、大抵の人は普通だ。
 否、むしろ、「ケチで野暮」な人の方が多いかもしれない。落語を思い浮かべてください。下町に住んでいるなんて、基本的に貧乏人。ケチじゃなくちゃ生きていけない。人の噂話や悪口の大好きな野暮天が多いものである。

 筆者は「4軒長屋」の1つを事務所にしているが、壁一枚で隣りの家とくっついているために、隣りの住人の声などは丸聞こえ。被災地に行くと仮設住宅の狭さや、隣りとの壁の薄さから息苦しさを感じるという人が多いが、そんなのはデフォルトの世界。だからこそ、隣近所が何をやってるか、お互いに結構詳しく知っている。プライバシーもあったもんじゃない。
 親切な人は確かに多いが、「余計なお世話」というケースだって少なくない。

 休日になれば、「閑静な下町風情」に触れたい観光客が、地元でもそこの住人しか通らないような露地に入って来て、勝手に人の家の写真を撮ってる。高級住宅地なら、外から来た人達が子供の写真を勝手に撮ると怪しがられるだろうが、「下町っ子が路地で、昔ながらの遊びをしている」と、誰彼構わず写真を撮って行く。
 閑静な場所のはずなのに、「あ〜、こないだ、ここテレビに出てた〜。タレントの○○が来てたよね〜」なんて、大声で通り過ぎて行く。下町の長屋は、風通しのために窓を開けている家が多い。そういう観光客が、家の前を通って行くことは、住人からはよく見えてるし、会話もよく聞こえている。

 これは、筆者自身がついつい思ってしまうことなのだが、地方に行っておいしい店を探そうと街なかを歩くと、チェーン店ばかりが進出していて、なかなか「地元らしさ」の店が見つからず辟易する。しかし、浅草や上野を地元として考えれば、ファミレスも、ラーメンチェーン店も、回転寿司も、コンビニも、住民の生活を支えている大事な店だ。下町らしい商店街も大切だが、デパ地下のお惣菜も地元住民にとっては必要だ。

 その地域のイメージで、住民の気質が単純化される。ある意味で、見世物になる。地元住民は、観光客に対して、ある程度のサービスが求められる。
 観光の街で暮らすとは、つまりそういう事だ。


■「被災者・被災地のイメージ」を受け入れる

 「こんなに被害の大きかったところにいるなんて、可哀想」
 「毎日、悲しい思いをしているんでしょう」
 「震災の日は何をしてたんですか?」
 「家族で誰か死んだの?」
 「放射能の心配はないですか?」
 「写真撮らせて」
 「支援させてください」
 「これから、どうやって生きていくの?」
 「辛いだろうけど、頑張って」

 被災地を観光地化するということは、地元の人達がこういう言葉を「受け入れる」ということだ。言葉に出さなくても、毎日のように観光客を相手にしていれば、そう思われているだろうと、ひしひしと伝わってくる。写真を撮ったり、あるいは支援の申し出などは、地元の人達がどう思おうと、観光客が勝手に押し付けてくるだろう。
 今でさえ、東北の各地で、同じ事がそこら中で起きている。
 もちろん、例え観光地化したとしても、地元住民がそんなことを「受け入れる」義務はない。しかし、そういう事で腹を立てるようなストレスが増えて行く事は、容易に予想できる。

 筆者の個人的な意見を言うなら、それでも、「観光」を産業として受け入れられる地域は、受け入れた方がいいと思う。何といっても観光は、「外貨」が入ってくる。地元以外の場所の経済活動で生み出されたお金が、観光客が地元に来る事で、何らかの消費活動が行われ、地元に残されていく。原発を受け入れるだけで電力会社から地元にお金が流れるより、よほど健全に経済がまわって行く。地元にお金が回れば、雇用も生まれるし、住民の収入も増える。当然ながら自治体も潤うはずで、予算の使い方次第では、地元はさらに活性化していく。東北各地では、震災前から過疎化が進み、このままでは崩壊を迎える危機にあったような自治体も多い。そんな中で、震災という不幸をキッカケに、観光という新しい産業が生まれるのであれば、それは一つのチャンスになる事は間違いない。

 しかし、これも何度も書いている通り、それを受け入れるかどうかを決めるのは、やはり地元の人達だ。
 地元以外の人が「儲かりますよ。日本社会の防災意識にも貢献できます。ですから、観光地化しましょう」というのは簡単だ。しかし、今現在も、あらゆる形で傷ついたり、嫌な思いをしている人達に、「これ以上見世物になるかも知れません」と勧めることをすべきだろうか? 少なくとも筆者は、個人的に付き合いのある人に対して、観光地化について話す事はあっても、一般論としてそんな事を言う気にはなれない。

 筆者のように観光に関わっている人間でさえ、年に何度かは「観光客、ウゼぇ」と思うのが本音だ。


■広島の原爆ドームを事例に出すのは妥当か?

 「被災地観光」「ダークツーリズム」という言葉への反発を緩和するためだろうが、こういう話をする時に原爆ドームを例に出されることがある。しかし、それは妥当だろうか?

 たしかに、原爆ドームは、核兵器の被害を後世に伝える象徴的な遺構だ。原爆ドームを見に来る観光客もいるだろう。しかし一方で、未だに原爆の体験を、家族にさえ打ち明けられないでいる人達もいる。

 筆者は、被爆から約30年後の1976年に初めて訪れて以来、何度も広島に行き、原爆体験をして来た人達に話を聞いて来た。最後に行ったのは、今から10年前、被爆から約60年後の2003年だ。広島で何人もの方から話を聞くと、「最近になって、ようやく当時の事を話すことができるようになった」「死ぬ前に、話しておかなくてはいけないと思うようになった」と語る人と出会う事がある。30年も60年も経って、ようやく振り返れるという人がたくさんいる。東京の被爆者団体で話を聞いた事があるが、戦後、関東に移り住んだまま、一度も広島や長崎に戻れないでいる人達もいると聞いた。中には、そうやって被爆体験を振り返らないまま亡くなる人もいるはずだ。

 放射能の被曝によって差別を受けることも理由の一つではあるが、「自分だけが生き残って申し訳ない」という気持ちを持ち続け、語ることができないでいたと話してくれた人に何度も出会った。
 原爆ドームは、そうした人達の思いも背景にある上で存在しているということは、見過ごされていないだろうか? 原爆ドームを例に出す人達は、そうした当事者達の気持ちも、ちゃんと説明しているだろうか。
 原爆ドームを事例とするならば、そこまでを考慮して今後の震災遺構を考えなければ妥当と言えないだろう。

 もちろん、そういう貴重な体験を語り継いでくれる人達がいる。そうした語り部達の言葉は、日本社会に取って教訓となり、重要な財産となる。だから、観光地化して行く事を否定するつもりではない。否が応でも多少は観光地していくし、実際にすでに多くの被災地で観光地化は進んでいる。そもそも、僕のように取材者が訪れて話を聞く事だって、地元の人達にとっては観光客と同じようなものだ。
 しかし、筆者が取材していても「話をしたくない」という人達はたくさんいる。そして、観光地化をのぞまない声も、地元では少なくないのが実状だ。

 気仙沼の「第十八共徳丸」は、津波の犠牲の象徴的な建物ではない。陸前高田の「奇跡の一本松」と同様に、あの船で直接的に被害にあったという人が(可能性としてはあり得るが)、多く存在しているわけでもない。それでも、自治体が行った地元住民のアンケートに対して、「保存の必要なし」68・3%。「保存が望ましい」16・2%、「船体の一部や代替物で保存」15・5%と、約7割の地元住民が保存を拒否した。
 大雑把なアンケートなので、一人ひとりから丁寧な聞き取り調査をすれば、もっと複雑な心境で、単純に「保存拒否」というわけではないだろう。説得をすれば、保存に変わる人もいるかもしれない。しかし、現実問題として、それを誰がするのかという問題が常に残る。
 
 
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[キャプション]陸前高田市・奇跡の一本松(9月12日撮影)
 

■観光地化をめぐる課題

 観光地化をめぐる課題は、地元の合意だけではない。

 よく指摘されるのが、財政の問題だ。今回、政府の方針で「初期費用」は復興予算があてがわれることになったが、それ以降の維持管理費については、政府の支援を受けられるかわからない。被災したエリアの中には、「国立公園」や「ジオパーク」になるところもあり、そうした地域は、未定とはいえ何らかの財政援助が見込めるが、多くの震災遺構は、維持管理についての財政的な裏付けがない。「奇跡の一本松」のように有名で象徴的な遺構は、今後も観光客による経済効果が見込めるかもしれないが、それほど有名ではなく、しかし地域にとっては重要な教訓となるような遺構は、どうやって維持管理費を捻出するか、大きな課題となる。

 筆者が、財政問題よりも大きいと思うのが、交通手段である。東北の太平洋沿岸部が、震災遺構によって観光地化をしていくのであれば、地域の交通手段が充実していなければ上手くいかない。
 しかし、例えば三陸地域(宮城県北部と岩手県など)にあった沿岸部の鉄道は、未だ復旧していない地域も多い。

 NHKの朝ドラ『あまちゃん』で登場する鉄道のモデルとなった「三陸鉄道」は、来年春には全線復旧する見込みだ。しかし、JR各線は、現在も復旧の見込みすらないところが多い。
 例えば、三陸鉄道の北リアス線の南端は、復旧すれば「宮古」となる。一方、南リアス線の北端は、復旧すれば「釜石」だ。震災前、この2つの駅を結んでいたのは、JR山田線だが、宮古〜釜石間は震災で被災し復旧の見込みはない。バスを2回乗り継いで、ようやく互いを行き来できる。
 つまり、仮に来春以降、三陸鉄道が復旧した後に、あまちゃんロケ地めぐりをしに岩手県久慈市に訪れ、その後に岩手県の南方向に向かおうと思っても、電車で行けるのは宮古市までだ(現在は、田野畑まで)。釜石も、大船渡も、陸前高田も、電車では乗り継いで行けない。まして、それより南にある気仙沼以南の宮城県は、さらに遠い。

 宮城県を仙台から電車で北上できるのも、今のところは石巻市まで。来年には女川に繋がるが、石巻より北にある南三陸町や気仙沼には、BRT(バス高速輸送システム/一般道ではなく専用道路などを走るバス)を乗り継いで行くしかない。
 福島県にいたっては、原発事故の影響で、沿岸部を走るJR常磐線、国道6号線、常磐自動車道(未開通)は、どれも原発事故の影響で通行禁止となっており、内陸に大きく迂回しなければ、南北を行き来する事ができないし、原発事故の収束の見えない中で交通手段の復旧などは、全く予定が立たない。

 『あまちゃん』のドラマの中でも、三陸沿岸部を電車で移動するのは面倒だという説明が繰り返されたが、震災以降、それ以上に面倒になっているのが現状である。バスを使うといっても、朝や夕方のラッシュ時は、地元の人達が使うために座れる事も保証できないし、何十キロも路線バスで移動するのは時間も身体的疲労も大変なものだ。例えば、前述した宮古〜釜石間は、車で約55キロ(東京なら、東京駅から高尾山までと同等)もある。
 JRは、復旧できない路線にBRTを導入する方針だ。先日、筆者は、すでに開通している気仙沼線のBRTに乗ってみたが、これで長距離を移動しながら観光するというのは、あまりお勧めできないと実感した。
 
 
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[キャプション]JR最知駅に停車するBRT(10月12日撮影)

 自家用車を使うとしても、三陸沿岸部の道路も、三陸自動車道の全線開通は、未だ見込みが立っていない。
 電車でも車でも、内陸から太平洋沿岸部へと東に向う事は出来るので、一つひとつの地域に行く事はそれほど難しくないのだが、被災地域が「線」で繋がっていないのだ。

 結局、今のところは、自家用車を使うか、観光バスに頼らざるを得ない。それでは、震災遺構で観光客を大量に見込むのは難しい。

 あわせて、宿泊施設も重要になる。筆者がよく訪れる石巻市や釜石市などでは、現在でさえ、宿泊施設を確保するのが難しい。復興作業や関連事業で宿泊する人達も多く、現状の宿泊施設では、これ以上の観光客を受け入れることができない。陸前高田市や南三陸町などでは、震災で被災してしまい宿泊施設がほとんどない。

 毎年、伝統祭である「相馬野馬追」が開かれる福島県相馬市や南相馬市では、その時期になると数か月前から宿泊施設の予約が一杯になるが、今後、観光地化を進めるのであれば、今以上に宿泊施設を作らなければ受け入れはできない。
 しかし、永続的に観光産業が根付く保証がなければ、宿泊施設が充実される事できないと、地元の観光業者は話す。


■本当に観光産業が成り立つのか

 今年、『あまちゃん』の人気で観光客が何倍にも増えた久慈市を除いて、多くの被災地では、観光客は震災以前よりも激減している。
 三陸地域で震災以前から観光客が多い地域といえば、気仙沼市があげられるが、震災前の2010年度は約210万人だった観光客が、11年度は約43万人、12年度は約78万人と激減している。そんな気仙沼市の復興商店街である「紫南町市場」は、気仙沼の震災観光にとって「第十八共徳丸」と並ぶ拠点だったが、商店街の人達に話を聞くと、「復興商店街の開場時に比べれば、徐々に観光客の客足は遠のいている」と、今後の観光客数の見込みに対して不安を口にする。
 実際、今年に入って、多くの復興商店街では、観光客が減りつつあるという報告がされている。
 
 
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[キャプション]南三陸さんさん商店街(11月2日撮影)
紅葉シーズンであり、サンマなどの秋の魚介類
も豊富な11月の週末だが、観光客はまばらだ

 宮城県最大の観光地であり、日本三景の一つでもある松島町でさえ、2012年度の観光客数は、震災前に比べて2割〜3割が減っている。津波被害は、沿岸部のなかでは比較的に小さかった(死亡者数16人、全壊・大規模半壊家屋数570戸)とされる同地でも、交通網などもそれほど変わっていないにも関わらず、震災による観光客の減少は顕著だ。

 それでも、それぞれの地域にとって観光地化を推し進めることが必要だとすれば、結局は、どこかで政治的な決断をするしかないだろう。
 震災遺構を保存するにしても解体するにしても、自治体の首長が決断するしかない。

 冒頭で、宮城県の村井知事が政府に対して突きつけた要求は、裏を返せば「政府が決断してくれ(もしくは、そのバックアップをして欲しい)」という切実なものだったと筆者は解釈しているし、釜石の野田市長が「遅過ぎる」「発表の仕方が悪い」と批判したのも、中央政府がもっと政治的なリーダーシップを発揮してくれれば、違った展開があった事を指している。

 陸前高田市の戸羽市長は、震災前に高田松原のあった沿岸部のバイパス沿いに、南から北に向って「気仙中学校校舎」「奇跡の一本松」「道の駅・高田松原」「下宿定住促進住宅」などの震災遺構を残すことで、観光ツアーのコースにしたいと考えている。その他、今後の町づくりの計画の中で観光産業を積極的に取り入れていく意向だ。

 一方、釜石市の野田市長は、観光を復興の目玉にすることについては慎重な姿勢を示す。
「今後、『橋野高炉跡』を世界遺産に認定してもらおうという動きがあります。2019年にはラグビーのワールドカップの開催地にも立候補する事を検討中です。しかし、観光産業を性急に進める事はしない。震災復興で様々な課題を抱えている中で、身の丈にあった観光産業を目指して行く」
 
 
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[キャプション]釜石市野田武則市長(11月22日撮影)
 
 釜石市の観光客は、震災前の2010年度は約103万人だったのに対し、震災後、11年度は約26万人、12年度は約50万人と、いずれも半分程度になっている。そうした現状を踏まて、慎重姿勢なのだろう。震災遺構をそのまま残すのではなく、今後、政府の復興予算なども活用し、東日本大震災の教訓を伝える施設を作ることも検討しているという。

 政府、自治体、そして地元住民が、震災遺構や観光地化をどのように進めて行くのか、今後も伝えて行きたい。
  
*  *  *  *  *

 「石のスープ」の読者に皆さんには、何度も言うように、時間的・経済的な余裕があれば、ぜひ東北各地に足を運んでもらいたいと思っています。
 それは、観光による経済的支援という意味でもあります。そして、震災による被害の影響を知るには、やはり現地に行って観る事で、圧倒的な説得力があると思うからです。
 観光でも、ボランティアでも、何かの機会があれば、ぜひ足を運んでみてください。そして、願わくば、そこで観たり感じた事を、周囲の人に話をしたり、SNSなどを使って感想を書いて伝えてください。

 次号でお送りする電子書籍版は、震災遺構の現状を写真で伝えています。数か月経てば、それらは変化するかも知れませんので、どれほど役に立つかわかりませんが、少しでも東北に行く機会になればという期待を込めてお送りします。

[参考]
台東区ホームページ http://www.city.taito.lg.jp/
気仙沼市ホームページ http://www.city.kesennuma.lg.jp/
釜石観光物産協会 http://www16.plala.or.jp/kamaishi-kankou/
松島町ホームページ http://www.town.miyagi-matsushima.lg.jp/
 
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[電子書籍版]“2年半”で考える“震災遺構(2013年9月24日号)
http://ch.nicovideo.jp/sdp/blomaga/ar351899

[電子書籍版]震災遺構のいま(2013年12月5日号)

http://ch.nicovideo.jp/sdp/blomaga/ar406545
 

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渡部真 わたべ・まこと
1967年、東京都生まれ。広告制作会社を経て、フリーランス編集者・ライターとなる。下町文化、映画、教育問題など、幅広い分野で取材を続け、編集中心に、執 筆、撮影、デザインとプリプレス全般において様々な活動を展開。東日本大震災以降、東北各地で取材活動を続けている。震災関連では、「3.11絆のメッセージ」(東京書店)、「風化する光と影」(マイウェイ出版)、「さよなら原発〜路上からの革命」(週刊金曜日・増刊号)を編集・執筆。
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