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石のスープ
定期号[2013年5月31日号/通巻No.78]

今号の執筆担当:渋井哲也


渋井哲也 連載コラム【“一歩前”でも届かない】vol.13
「『若い人と違って、年寄りはすぐに逃げられない』
 〜地震の影響で避難生活を送る水戸市の女性〜」




 東日本大震災から5日目、2011年3月16日。筆者は茨城県水戸市に出かけていた。都内から出発すると、ガソリンスタンドには多くの車が並んでいるのが見えた。数百メートルも列をなすガソリンスタンドもあった。震災によってガソリンが供給できない状態が続いていたのだ。開店していなくても、車が並んでいた。あとで聞くと、ミクシィやケータイメールで、真偽は不明だが、ガソリンスタンドが開く時間が出回っていたという。

 そんな中で、ガソリンが足りなくても行ける被災地に行こうと、茨城県を目指していた。カーラジオからは津波被害だけでなく、東京電力・福島第一原発の事故についてリアルタイムな情報が流れていた。茨城県に向かうということは事故を起こした原発に近づくことを意味していた。しかし、このときはガイガーカウンターを持っていなかったために、放射線量を気にする間もなかった。

 普段なら常磐自動車道を使えば数時間で水戸へ着くはずだが、この時は東北方面に向う高速道路は通行止めになっていた。そのために国道6号線を使って水戸へ向かい、いつもの数倍は時間がかかった。避難所になっていた、水戸駅近くに三の丸小学校の体育館に着くのはもう夜になっていた。

 避難所で出会った小川裕子さん(仮名)は地震があったとき、JR水戸駅から数分にある、宮町の自宅にいたが、しばらくして三の丸小学校の体育館に避難した。

 「自宅のすぐ近くで崖崩れがあった。その崖下にあった駐車場をはさんだ反対側のあたりです。地震があった後、東照宮の崖が崩れそうだったんです。東照宮のことは、新聞に大きく取り上げられていました。雨が降って、地盤が緩くなっていたんですね。崖の上に3階建ての建物があるんですが、そこが危なくて逃げてきたんです。崖の下には車が7台か8台あったんですよね」

 水戸東照宮は、水戸藩の初代藩主・徳川頼房が1621年に、徳川家康を祀る神社として創建したものだ。この東照宮や水戸協同病院の周辺では、崖崩れなどの危険があったため、避難指示が出されたが、小川さんの自宅は道を隔てていたため避難指示のエリアではなかったが、自主避難をしてきた。小川さんは、かつて経験したことのない揺れを感じたことで、「終わり」を感じ不安になったと言う。

 「地震があったときは家にいたんです。すごい怖かった。もう人生終わりだと思った。以前、東京で14階建てに住んでいたときがあったんです。そのとき震度5を経験しましたが、そのときは何も倒れなかったんです。でも、今回はすごかった。初めての経験です。ガタガタしたけれど、いつもの地震だと思って、ちょっと治まったらドアを開けて、外に出ようと思ったんです。しかし、いつになっても地震が治まらなかったの。どのくらい続いたんでしょうか? 昨日も震度6弱とかあったでしょ? それで20秒とかでしょ。もう終わったと思ったです」

 地震の体感は凄まじいものだったが、しばらくして地震が治まったために外に出た。姉を待っていたところ、近所の若い男性が声をかけてくれて、協同病院の駐車場へ避難することにしたのだ。 

 「地震が少し止んだので近くに住んでいる姉を待っていました。でもなかなか出てきませんでした。そうしているうちに、近所のおにいちゃんが『危ないから、家にいないほうがいいです。駐車場に逃げたほうがいいですよ』と教えてくれたので、協同病院の駐車場に行ったんです」

 その後、一旦は、比較的地震の影響がなかった姉の家に避難した。

 「家は土地は亀裂が入ってしまって、段差も激しいとことが近くにあったんです。道を挟んで姉の家があったんです。姉の家は亀裂がなく、歪んだりもしていないし。家自体は斜めにもなっていない。みんなでいた方が怖くないから、いったんは姉の家で過ごしていたんです。この小学校に避難したのはその後です。少しして、崖は大丈夫ということになったんです。だけど、その崖の上のブロックとか、石垣が危ないとなったんです。ブロック塀は曲がって来ていて、隣の家の方に寄っていたんです。そのとき気がついたんですけど、ブロック塀の下に土が入っているんです。つまり、盛り土の上に三階建ての家や二階建ての家が建っているんですよ。もう、地盤がガタガタってことでしょ?」

 それまで平常時には何でもないように見えていた建物が、実は軟弱な地盤の上に立てられていることが分かって来た。危険度が高いということで、避難したのだ。

 「よくそれで昔は建築許可が出たものですね。今だとどうなのかわからないけど。そのことを調べにきた市の人がやってきて、『雨が降りそうだから』と言って、注意を促しに来ました(崖の)上の人は避難していない」

 内陸にある水戸市は津波被害があるわけではないが、地震そのものの被害が大きかった。とくに宮町は、多くのブロック塀や石塀が崩れてしまい、家屋の被害も多かった。
 避難所生活のための食事については、街中ということもあって、食事の支援は不便ということはなかった。

 「ご飯は不自由していません。お茶も出ています。ローソンやホテルの人が差し入れしてくれたりしました。ここは小さい子もいないし、特に不便さは感じないですね。毛布も山ほどあるし、寒くないです。それは恵まれていたと思う。岩手とかあっちは、食べ物もないんでしょ? 水道が復旧するのが早かったですね。でも寒いときでよかったと思う。これが夏だったら大変。食べ物も腐っちゃうし、着替えも大変」

 小川さんは、離れて暮らす家族達との連絡もついている。

 「若い人は来ませんよ。何かあってもすぐに逃げられるしね。年寄りはそうもいかない。心配だから。でも、これから(復興に向けてが)長いと思いますよ。どこもだし、みんなだし。電車も動いてないし、高速も走れない。身動き取れない」

 ちょうどこの日、多くの崖下の家屋では避難指示が解除され、自宅に戻る人達もいたが、小川さんはもうしばらく、この避難所で過ごすつもりだと言う。

 「家がなんともない人はすぐに帰れます。家は傾いたんです。ずっと、斜めになって歩かないといけない。そういう補助は市長さんとかちゃんとしてくれるんでしょうか。それか知事さんとかにやってもらわないとねえ。さっき、市長さんも来たけど、大変だと思う。帰ってもどうなるんだろうか。これからのことをちゃんとしてほしい。政治家にがんばってほしい」

  
 
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[キャプション]小川さん(写真左)
写真撮影:渡部真/小川さんに「これからどこに行くのか?」と
聞かれ、「これから一度東京に帰ってガソリン準備したら、今度
は福島に向うつもりです」と答えると、「あんた、放射能が怖く
ないの? やめときなよ」と心配をしてくれた。       



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■渋井哲也 携帯サイト連載
ジョルダンニュース「被災地の記憶」
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渋井さんによるニュースサイトでの連載です。最新号は、「母子4人の犠牲が教えたもの−本州最東端の岩手県宮古市姉吉」というタイトルです。



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渋井哲也 しぶい・てつや
1969年、栃木県生まれ。長野日報社記者を経てフリーライター。自殺やメンタルヘルスやネット・コミュニケーション等に関心がある。阪神淡路大震災以来の震災取材。著書に「自殺を防ぐためのいくつかの手がかり」(河出書房新社)など。
[Twitter] @shibutetu
[ブログ] てっちゃんの生きづらさオンライン