フリーランサーズ・マガジン「石のスープ」

村上和巳【我、百文の一山なれど】vol.2「注目されない『福島第二原発』」(前編)

2012/12/15 20:10 投稿

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※今号は無料公開版です。
石のスープ
定期号[2012年12月16日号/通巻No.62]

今号の執筆担当:村上和巳


 あの3月11日以来、日本国内に居住する人で「東京電力・福島第一原子力発電所(通称・1F)」の名を知らない人はもはやいないだろう。同原発では1号機、3号機、4号機が立て続けに水素爆発を起こし、2号機も原因不明の衝撃音を発したことがわかっている。そしてこの事故による放射能汚染は福島県沿岸部の双葉郡一帯に「警戒区域」という名の無人地帯を作り出した。警戒区域はその後の再編により、徐々に縮小しているものの、区域外となった地域に人は戻ってきていない。
 だが、1Fの事故があまりに衝撃的だったせいか同じ警戒区域内に位置するもう1つの原発である東京電力・福島第二原発(通称・2F)の存在は多くの人の記憶から消えつつある。2Fは現在冷温停止中とはいえ、一部は仮設設備のまま運営され、いまなお復旧作業の途上にある。今年10月2日、東京電力はこの2Fの復旧作業をメディアに公開し、私は取材する機会を得た。今回はその時のことを報告しようと思う。
 
 
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[キャプション] C装備を着用した筆者(撮影・畠山理仁氏)


■9メートルの津波に襲われ、4系統のうち3系統の電源喪失

 2Fは1F南方12km、福島県双葉郡富岡町と楢葉町にまたがって位置する。敷地面積は約147万立方メートル。1号機の運転開始は1982年4月(建設着工1975年11月)。現在は4号機まであり、各原子炉の発電出力は、それぞれ110万キロワットずつである。
 日本初の商業用原子力発電所は1966年に運転を開始した日本原子力発電の東海発電所(既に営業運転停止。国内初の廃炉作業中)だが、2Fはこれまで国内で営業運転した18箇所の原発の中では12番目と比較的新しい方に属する。

 2011年3月11日の東日本大震災で、1Fと同様に2Fも津波に襲われた。来襲した9mの津波は原発敷地の南側にある1号機近くから4号機周辺まで流れ込み、建屋周辺は約50cm浸水した。同時に外部電源4系統のうち3系統を喪失、さらに海側にあった海水ポンプとその電源が浸水、4基のうち1、2、4号機の原子炉が一時冷却不能になった。
 当初、東電側は1号機の原子炉冷却材が漏洩した可能性が否定できないと判断、これが「原子力災害対策特別措置法」(原災特措法)第10条第1項の特定事象に該当するとして、11日17:50(発生確認は17:35)、経産大臣、福島県知事、楢葉町長、富岡町長宛に「第10条通報」と呼ばれる特定事象発生通報を行なった。
 しかし、実際には1号機は原子炉除熱機能が喪失していることがわかり、2号機、4号機でも同様の事態となっていたことから、18:40(確認は18:35)に改めて「原子炉除熱機能の喪失」に伴う第10条通報が行われた。
 この後、1、2、4号機で冷却、水位維持が行われたが、最終的に翌12日午前6時7分に4号機の圧力抑制室内の温度が100度を超えたため、「原災特措法」第15条に定める原子力緊急事態(圧力抑制機能喪失)が発生したと判断し通報(15条通報)。これに基づき同日、内閣総理大臣による原子力緊急事態宣言が発出された。

 しかし、2Fでは外部電源が1系統だけ生き残り、それを活かしながら、仮設電源ケーブルの設置などの応急対策を突貫工事で進め、4日後の3月15日までに全機で冷温停止にこぎ着けた。もっとも津波被害は甚大で、以後も原子力緊急事態宣言は継続し、電源供給機能や残留熱除去機能の多重化などを図って同年12月26日にようやく緊急事態宣言が解除された。
 解除後は原子力災害対策特別措置法に基づく原子力災害事後対策の実施段階に移行。東電側は2012年1月31日付で原子力事業者防災業務計画に基づく復旧計画を策定、経済産業大臣、福島県知事、楢葉町長、富岡町長に提出している(2012年5月31日改訂)。
 
 
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[キャプション]2F構内には東日本大震災の津波の
波高を記録した掲示板がある(提供・東京電力) 


■フリーランスへの取材規制

 そもそも2Fのメディア公開はこの時が3回目。1回目は2012年2月、2回目は2012年7月だ。1回目当時はまだ東電側が1F構内の報道公開も含め、フリーの参加を認めていなかった。2回目は2012年6月27日の株主総会で新経営陣として就任した下河邉和彦会長と廣瀬直己社長が7月4日に現地を訪問した際に設定され、代表カメラ1人も含むフリー枠2人が設けられた。

 このフリー枠には少々ワケがある。そもそも東電側のフリーへの原発公開は2012年6月の細野原発相(当時)の1F視察時の同行取材で初めて認められた。これは東電会見に参加してきたフリーランスで構成される「フリーランス連絡会」をはじめとする組織やフリーランス個人が東電に原発内部の取材を積極的に求めてきた成果である。ちなみにフリー初の1F取材時は希望者が多数で抽選になり、最終的には畠山理仁さんと木野龍逸さんが1F入りを果たした。
 ただ、フリー枠にはいくつかの制限があった。畠山さんと木野さんの1F入り時はフリー枠のみ代表カメラなし。これには募集開始時から東電側にフリーから抗議が殺到した。東電側の言い訳は「放射線管理担当者などの配置上、カメラの人数を制限しなければならない」というものだったが、これに対する様々な抗議に当時の東電広報部は必ずしも合理的な説明はできていなかった。
 さらに応募者に(1)東電の定例会見に1回以上参加している、(2)日本新聞協会、日本専門新聞協会、日本地方新聞協会、日本民間放送連盟、日本雑誌協会、日本インターネット報道協会のいずれかで発表実績がある……の2つの条件が課された。私は(1)の条件を満たしていないとして、当時は応募そのものを却下されている。
 だが、この時、畠山さんや木野さんだけでなく、抽選で漏れたフリージャーナリストの寺澤有さん、このメルマガの編集人でもあるフリー編集者の渡部真さんらの猛抗議もあってか、7月の2F構内取材時に設定されたフリー枠には代表カメラ枠が新設された。これはその後、10月に行われた1F構内取材時にも引き継がれた。読者はご存知のとおり10月の1F取材時はフリー枠のペン取材として渡部さん、代表カメラとして尾崎孝史さんが1F入りを果たした。ただ、前述の応募者の2条件はそのまま維持された。

 さて2Fについては前述のように第2回の取材でフリー枠ができたが、私はその時点でも定例会見出席歴がなかったのでやはり応募資格はなし。そんなこんなもあって7月から東電の定例会見にほぼ週1回ペースで出席するようになった。
 そして9月下旬、突如2Fの構内取材があるという情報をツイッター上で知った。しかも東電会見に向かう地下鉄車内でだ。あまりにも突然のことだったので、私はそのことをツイッター上でボヤいたが、定例会見場に到着し、PCを開いてWi−Fiをつなぐと、つぶやきを見た畠山さんから2F構内取材に関する東電発表の申込用紙のPDFファイルがメール添付で送られてきていた。持つべきものは親切なフリー仲間であると思ったものだ。

 定例会見後の会場で、私はこのことについて東電広報部に尋ねた。対応したのは広報部広報業務支援グループ課長の石橋すおみさんである。ちなみに私は当時、石橋さんに対してやや腹に一物あった。先に開かれた社長・会長会見の質疑応答の際に彼女は、質問のため挙手した私を複数回にわたって明らかに避けたフシがあったからだ。
 石橋さんによると、7月の公開時は在京メディアを中心としたものだったが、今回の2F公開は福島県政記者クラブ所属各社を中心としたものだという。ただし、フリーも応募は可能ということだった。
 この時、私は石橋さんに確認したことがある。申し込み書類では、フリー参加枠はこれまでの2人枠という制限もなく、さらに定例会見参加歴など前述の2条件の記載がなかったからだ。これに対して石橋さんは「ええ、今回はなるべく多くのメディアの方に参加していただけるようにしてあります」と明言した。

 さて応募書類を締切日までにFAXし、締切日翌日に別件で東電広報部に電話をした。この時、私はある担当者を名指しで指定したのだが、応対に出たのはなぜか広報部報道グループ大嶋潤氏(当時)だった。しかも、大嶋氏はこちらが要件を切り出す前に「2Fの件ですが、村上さんはご参加いただけますので、集合場所に時間通りにいらしてください」とのこと。なんとも奇妙な対応だが、どうやらこの時点で既に私は東電からやや煙たがられていたようだ。
 そして同日、私は畠山さんから意外なことを聞かされた。東電側は2F取材を申し込んだフリーのうち4人の参加を既に断っていたのだ。しかも、いつもの2条件を適応してだ。後出しジャンケン的なやり方だが、畠山さんによると東電側は「ホールボディーカウンター(WBC)検査の時間など物理的条件を考慮した結果」と説明したという。この点についての詳細は畠山さんのメルマガ『そこそこ週刊・畠山理仁 Vol.057本当に全員入れられなかったのか? 謎の「4名お断り」』のバックナンバーを購入して参照して欲しい。


■ホール・ボディ・カウンター測定は「正常」

 結局、私の知る限りではこの時、フリーでは私以外に畠山さん、自由報道協会の田中龍作さん、そして渡部さんが参加を認められていた。ただ、渡部さんは、仕事が立て込んで急遽当日にキャンセルとなってしまった。

 取材当日の10月2日の早朝、畠山さんの車に同乗させてもらい、私は都内から集合場所である福島県双葉郡広野町のJR常磐線広野駅に向かった。
 震災発生後、1F事故によって設定された警戒区域により、JR常磐線の上野方向からの北上ルートは現在、広野駅止まりになっている。もっとも当初は1Fから半径20〜30km圏内に位置する広野町も緊急時避難指定区域となったため、2011年10月10日まで常磐線は広野駅よりも2つ手前のいわき市にある久之浜駅までの運行になっていた。しかし、この直前の9月30日、緊急時避難指定区域が解除され、現在は広野駅まで運行が延長し、ここで折り返し運転になっている。

 広野駅には集合時間の10時20分の1時間弱ほど前には到着。集合時間までは広野駅前を散歩したり、畠山さんの車の中で構内に持ち込むビデオカメラに荷造り紐で応急のストラップを作ったりして時間を過ごした。
 この時の2F取材は代表カメラという設定ではなく1人1台の持ち込みが可能だった。私はスチールかムービーかで悩み、静止画も撮れるムービーを持ち込むことにしたのだが、東電側からは使用済み燃料プール周辺に立ち入ることもあって、撮影機材には予め落下防止のストラップなど付いていることが求められていた。そこでストラップがなかったビデオに応急措置を施したのだ。

 集合時間近くになると参加する記者が三々五々姿を見せた。そのメンツは私、畠山さん、田中さん、週刊金曜日編集部の方、IWJの2人の合計6人に前述の東電広報部の大嶋氏を含む複数の東電関係者である。後に2F構内に到着してわかったことだが、当日の取材は3班構成で、1班は5社10名、2班は8社13名、そして私などフリーランスの記者が含まれる3班6名となっており、各班入替制での取材だった。

 東電が用意したマイクロバスに乗り込むと、広野町の市街地を抜け、国道6号線を北上する。5分ほどで広野町と楢葉町の境界付近にあるJビレッジ近くの交差点を通過する。2012年8月10日までは、ここが警戒区域入口の検問所となっていたが、楢葉町が国の警戒区域再編に応じたことで全町が警戒区域を外れ、検問所は既に廃止されていた。しかし、相変わらず交通整理のような形でかつての検問所の路上には警官が立っていた。
 楢葉町内を過ぎ、広野駅から通算して約10数分。前方に「止まれ」の旗を降る警察官数人が立っていた。楢葉町と富岡町の境界、現在の警戒区域の検問所である。通常、警戒区域に入る際はここで公益立入許可証か一時立入許可証を提示しなければならず、なんだかんだと警察官とやり取りしなければならない。ところがそこはさすがの東電。検問所で停車した時間は1分足らず。そこのけそこのけ東電様が通るという感じだ。
 
 
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[キャプション]災害特別措置法に伴う警戒区域の南側入口
 

 ここを越えると間もなくバスは国道6号線から右折して、排気塔が見える太平洋側の森への一本道に入った。沿道に駐車した警察車両の前を通り過ぎてまもなく民間警備会社の警備員が立ち並ぶゲートに到着した。2F正門前である。ちなみに東電側によると、2Fに続く道に警察車両が駐留するようになったのは楢葉町の警戒区域解除後ということだった。

 原発という非常にデリケートな場所であるためか正門周辺の雰囲気は物々しいが、後に実質的に1時間にも満たない原発取材のために構内に入ってから要した様々な手続きに比べれば、たいしたものではなかった。

 2F本館に到着後、1階の会議室に誘導される。室内には長机が配置され、各テーブルには参加者の名札、取材用資料、ミネラルウォーター、飴が置かれている。しかし、そこで一息つくまもなく、私たちは隣室で養生を行う職員に撮影機材を渡し、WBC(ホール・ボディ・カウンター)による内部被曝量の計測に向かった。
 控室となった本館内の会議室周辺の廊下には、職員が要所要所にたっている。館内のどこかに勝手に移動しないようにするための監視要員なのだが、場所柄それは当然とも言える。もっとも館内を歩くとわかるが、内部はちょっとした迷路のような構図になっていて、トイレと会議室の間の僅か数メートルでも迷いかねない。ちなみに館内では女性職員もいる。
 職員の先導で3班6人が到着したのは、病院の検診センターのような広いカウンターとその目の前の廊下に椅子が並ぶ場所。カウンターの向かいにある小部屋内のWBCで測定が行われる。ここで田中龍作さんが「ここにいるメンバーは皆、東電本店定例会見の嫌われ者ばかりですから」と職員相手に軽口を叩く。まあ当たらずとも遠からずか。

 1F事故以後、東日本全土には放射性物質を含んだ大気、通称・放射性プルームが降り注いだと言われる中で、自分の体内がどれほど被曝しているかは気になるところだ。かくいう私は震災後に何度も福島入りしているし、実家の宮城県南部・亘理町は1Fから約80km地点。さらにこの時で警戒区域内に入るのは7度目。食品等などであえて東日本産のモノを避けるようなことはあまりしていなかった。
 名前を呼ばれて小部屋に入り、小さなブースに据え付けられた背もたれ椅子に背を密着して着席すると、背もたれに埋め込まれたWBCが被曝量を計測するという。目前の壁には小さなモニターが埋め込まれ、測定を開始すると画面に線路を走る列車の運転席にいるような映像が流れる。アップダウンや「ガタンゴトン」という音声付き。モニター右隅に残りの計測秒数が表示される。待つこと1分、画面に正常値との旨が表示された。少しホッとする。
 
 しかし、東電がフリー4人を断った理由のWBCの時間というのは、この1人当たり1分の合計4 分のこと。いかにも合理性に欠けると思うのは私だけではあるまい。
 
 
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[キャプション]事務本館内に掲示してあったスローガン
  
*  *  *  *  *  *  *
 
いよいよ「4号機の燃料棒取り出し作業」の取材ですが、続きは次号で……

「注目されない『福島第二原発』」(後編)



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電子メールの送り先は、「石のスープ」編集部宛に。


■12月20日(木)

東日本大震災 取材報告番組
「風化する光と影〜継続する僕らの取材レポート」岩手篇

去る10日(月)、イベントの生中継として放送する予定でした番組が、ご案内の通り放送事故となってしまいました。それを受けまして、来る20日(木)、改めて生放送で東日本大震災の取材報告番組をお送りする事となりました。

日 時:2012年12月20日(木) 20:30〜22:00
出 演:渋井哲也(フリーライター)
    村上和巳(フリージャーナリスト)
    渡部真(フリーランス編集者)





村上和巳
むらかみ・かずみ
1969 年、宮城県生まれ。医療専門紙記者を経てフリージャーナリストに。イラク戦争などの現地取材を中心に国際紛争、安全保障問題を専門としているほか、医療・ 科学技術分野の取材・執筆も取り組む。著書に「化学兵器の全貌」(三修社)、「大地震で壊れる町、壊れない町」(宝島社)、「戦友が死体となる瞬間−戦場 ジャーナリスト達が見た紛争地」(三修社/共著)など多数。
[Twitter] @JapanCenturion
[公式サイト] http://www.k-murakami.com/
 

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