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三宅勝久【東京アパルトヘイト観察記】vol.0「作文はつらいよ~自己紹介にかえて~」

2011/09/27 14:12 投稿

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  • ジャーナリスト

週刊 石のスープ
創刊記念特別号[2011年9月27日号/通巻No.4]

今号の執筆担当:三宅勝久
※この記事は、2011年9月に「まぐまぐ」で配信されたものを、「ニコニコ・チャンネル」用に再配信したものです。



■実は作文が大の苦手です

 読者のみなさんはじめまして。メールマガジン『石のスープ』執筆者でジャーナリストの三宅勝久です。ご関心を持っていただきまして誠にありがとうございます。

 私自身のことについてご紹介いたします。
  1965年岡山県倉敷市生まれの46歳独身男です。東京都杉並区阿佐ヶ谷に住んでいます。最近は『マイニュースジャパン』 http://www.mynewsjapan.com などに記事を書くのを主な仕事にしています。1〜2年に1回ほど単行本を出したりもしています。

  東京に出てきたのはちょうど10年前。この間、武富士の過酷な営業について告発記事を書いたり、自衛隊内で起きている隊員虐待や多発する自殺の問題、外資 系金融機関のシティグループをめぐる違法なビジネスといったテーマを追いかけてきました。武富士からは「1億1000万円払え」と名誉毀損で訴えられたこ ともあります。何年もかかって裁判をやって勝訴しました。これは面白い体験でした。
 また地元杉並区の区政や区議会議員らのデタラメな税金の使い方を追及して記事を書いたことあります。こちらは取材に深入りするあまり、自分で住民訴訟を起こすはめにもなってしまいました。勝訴を勝ち取ったケースもあります。いまも、3つの裁判が係争中です。
 武富士の問題は『武富士追及 言論弾圧裁判1000日の記録』(リム出版新社、絶版)、自衛隊は『悩める自衛官』『自衛隊員が死んでいく』(以上花伝社)、『自衛隊という密室』(高文研)という著書になっています。また近著に『債鬼は眠らず
 サラ金崩壊時代の収奪産業レポート』(同時代社)というのがあります。ご関心があればお手にとっていただけますとうれしいです。
 3月11日の大地震以降は、もっぱら電力会社や原発メーカーへの官僚や議員の天下り問題を調べて記事を書いていて、これは近く単行本になる予定です。

 まるでいっぱしのモノ書きのようですが、稼ぐことよりも興味の赴くままに調べて喜んでいるという感じで、職業というより趣味といったほうが正しいかもしれません。
  実のところ、私は作文が大変に苦手です。調べるのは好きですが書くのは嫌いです。この自己紹介文も締め切りを遅らせてもらって、ようやく重い腰を上げて書 いています。高校時代の国語の成績は、100点満点の40点から50点といったあたりで、常に低空および中空を漂っていました。記憶力がためされる古文漢 文になると10点や20点はざらにありました。「文章を書く仕事は絶対に無理」と自他ともに信じていた
のです。
 文章が苦手な者がどんないきさつでそれを仕事にすることになったのか。自己紹介に代えて振り返ることにします。


■イスパニア語って、どこの言葉?

 国語の点は悪かったのですが、たまたまイギリス語(英語)は比較的よく、高校では文系受験コースに進みました。そして大阪外国語大学のイスパニア語学科というところに進学しました。1984年のことでした。いまは合併によって大阪大学外国語学部になっています。
 恥ずかしいことに、私は入学式が終わってしばらく後まで、イスパニア語がスペイン語のことだとは知りませんでした。
〈受験勉強から解放されたい、岡山の田舎から脱出したい。大学に入ったら遊びたい〉
 と当時、私の頭の中にはそれしかなかったのです。
 スペイン語を勉強する気など毛頭ないままスペイン語の大学に来てしまったのですから、後悔しました。外国語をゼロから学ぶのは大変な苦労がいります。自由になって遊び放題どころではありません。
「言われるとおり受験勉強しろ。余計なことは考えるな。偏差値のいい大学へ行けば好きなことをやればいい。パラダイスだぞ」
 そう高校で言われ続け、素直に信じてきた私は、すっかりあてがはずれてがっかりしたわけです。

  もっとも「やりたいこと」が具体的にあったのではなく、受験勉強の苦痛から一刻も早く解放されたいというのが最大の願いでした。大学の入学試験に受かって 確かに受験勉強からは解放されました。しかし、大学では単位をとって卒業するというあらたな呪縛が待っていたのです。そんな覚悟はありませんでした。
  なぜイスパニア語を選んだのかというと、高校の成績で、英語科なら当落ギリギリ、イスパニア語は安全圏だったというそれだけのことでした。岡山の田舎を出 たかったので外国には漠然と興味がありました。浪人してまで受験勉強の苦しみを味わいたくないので、たぶん合格するだろうといわれた「イスパニア語」にし たのです。

 入試の偏差値で大学の序列を細かくきめた表が高校の壁に張り出されているのを思い出します。一番てっぺんが東大法学部か何か で、国立の中では下のほうに琉球大がありました。研究や教育の内容ではなく入試の点で大学を評価するという偏見教育が、高校の中で堂々と行われていたので すね。大阪外大にどんな研究者がいて、どんなことをやっているのかなどと教えてくれる教師はいませんでした。私も知りたいとは思ってなかったのです。
  教師の関心はもっぱら国公立大学に何人合格したのか、有名私立に何人受かったのか、ということばかりでした。子どもの人生よりも自分の成績が大事だったの でしょうね。もし一人くらい「イスパニア語というのはスペイン語だぞ。いいのか」と教えてくれればあるいは考え直したかもしれません。

  ただ、たとえばもし私にすばらしい高度の受験勉強の才能があってテストの点を取ることに長けていれば、ランキングトップの東大法学部あたりに行って、さら なる競争ゲームを勝ち抜いて国家公務員の上級試験に受かり、たとえば経済産業省の高給官僚になっているかもしれません。だとすれば高校の先生たちは大喜び していることでしょう。役所の中でもさらに出世して資源エネルギー庁長官にでもなった日には、間違いなく「高校の誉れ」扱いです。そして自信を持って原発 を進めて日本を破滅に追いやるのに一役買ったかもしれません。でもおそらく仕事に情熱を感じるわけではなくて、競争ゲームオタクです。そのつまらなさを想 像すると、余計な才能がなくてよかったと親に感謝しています。


■彷徨った果てに見つけたもの

  大学の話に戻りますが、税金で運営している国立大学に私のようなやる気のない学生が入るのは文字通りの税金の無駄遣いです。しかし、私にとってみれば大学 にいさせてもらったお陰で、スペインや中南米に目を開かせてくれたというのも事実です。決して勉強の成果ではなく、逆に勉強に飽きて脱落した結果といえま す。
 大学1年目はかろうじて進級できたものの、2年目でさっそく成績不良で留年してしまいました。見通しは暗く、これまで人生設計をまじめに考えてこなかった自分に気がついたのです。

 面白くない大学の中でもっぱら入り浸っていたのが剣道部でした。部活だけが救いでした。こちらは、年功序列、男尊女卑の絶対的封建社会ですから、何年留年しようが年季を積んだだけ権力が増してくるのです。居心地のいいところでした。
 ところが3回生で2年生の春休み、つまり大学3年目で1年留年中していた1986年の春、私は網膜剥離という目の病気をわずらって手術することになり、剣道を断念せざるを得なくなってしまったのです。
  病気は幸い発見が早く、手術もうまくいって失明はまぬかれました。当時大阪市の中ノ島にあった大阪大学付属病院にしばらく入院しました。壇上さんという頼 もしい感じの医師が執刀してくれました。シリコンの袋を眼球の後ろに縫いこむという新しい術法が使われはじめたばかりで、それによって私の目は救われたの です。
 ごく最近知ったのですが、国立民族学博物館の館長をしていた文化人類学者の梅棹忠夫さんが同じころ阪大病院の眼科に入院していたそうで す。梅棹さんは原因不明の失明状態に陥っていたのです。その後も視力はほとんど回復しなかったのですが、引き続き多数の著書を出し偉業を次々となしていく ことになります。  

 私がこのときにもし失明していたら、いまはどんな人生になっていただろうかと時々考えます。本も読めなければイン ターネットで調べることもできない。文章もかけただろうか。写真も撮れない。もし医療の受けられない国に生まれていたら失明していたわけで、幸運に感謝し ています。

 目の手術をしてからは剣道もやめて、かといって学業にも身が入らずぶらぶらしていました。そんなある日、ふと入ってみたのが 写真部の部室でした。中学生のときに天体観測に凝っていたことがあって、モノクロ写真の現像や焼付けをしたことがありました。それで暗室の臭いが懐かしく なったのです。
 写真は性に合っていて、友人やら近所の人たちを被写体に手当たり次第に大量の写真を撮るようになりました。アルバイトでためた金 で中古のレンズやカメラの費用や、フィルムと印画紙代にあてました。フジフィルムのネオパンプレストという高性能の白黒フィルムが発売されたばかりで、 100フィート(約30メートル)3000円ほどの長巻と呼ばれるのを買ってきて、自分でパトローネ(フィルムの入っている容器)に詰めて使っていまし た。

 写真に熱中することで嫌なことから逃げていたのですね。でも逃げたところでツケは回ってきます。留年の不安はつきまとい、下手をすると放校になる恐れが出てきました。やめてもやりたいことがはっきり見つかったわけではありません。
「ああいやだ」と悩んだ挙句に思いついたのが海外放浪です。これは日ごろから世界を無銭旅行したいな、などと下宿の友人とよく語っていたのが背景にありました。
「小田実の『何でも見てやろう』のような放浪の旅がしてえなあ」
 そんなことを話していたのです。大学4年目でまだ2年生。二度目の留年をした春、もやもやしている私に友人はボソと言いました。
「1年くらい外国放浪してきたらどうや」
  この一言で決心がつきました。行き先はスペイン。いやいやながらもスペイン語を勉強した影響でした。資金は30万円ほど。親の仕送りをためた金とアルバイ トの稼ぎでした。休学して下宿を引き払い、1年間あてのない旅をしてくることにしたわけです。休学すれば学費を払わなくていいのです。親は驚いて怒り、反 対しましたが、「絶対に大学を卒業すること」を条件に最後は認めてくれました。

 旅先のことは書き出すときりがなくなりますが、詐欺に あって文無しになってレストランで働いたり、いろんなことがありました。しょっちゅうデモをやっていました。時間は守らないし、口先だけのいい加減な奴が 多いな、と感じていましたが、じつは日本のほうがデタラメじゃないか、と今になってしばしば思います。
 スペインから日本に戻り、学業に復帰する と再び留年してしまいました。もっともスペインでは働きながら何年もかけて卒業するというのが普通だったので、ぼつぼつやればいいというくらいに気楽に なっていました。まだ仕事がたくさんあった時代で、大阪ガスの孫受けで土木作業をやりながら月に20万円くらいは稼いでいました。そして、「休学型放浪」 に味をしめた私は、もう一度、今度はメキシコへ行くことにしたのでした。やっぱりあてのない旅でした。
 もう外国に行ったきり帰って来ないのではないか。親はそう思ったらしく涙ながらに止めました。今と違って携帯電話もなく、連絡が途絶えたらなす術がありません。心配するのも無理はありません。


■それでもやっぱり作文は苦手です

 報道の仕事をしてみたいと考えるようになったのはメキシコを旅したころからです。ちょうど米軍がパナマを侵略し、第一次イラク戦争が起きたときです。報道の仕事といっても記事を書く記者ではなく写真のほうでした。 
  大学は最終的に9年かかって卒業しました。留年3回、休学2回。卒業したといっても就職せずに、引き続き同じ下宿に住み、ときどき大学に行っていました。 アルバイトをしながら年のうち半年くらいをつかってアフリカや中南米を訪ね、写真を撮ってくるという仕事をするようになりました。

 そんな暮らしを5年ほどした後の1997年、たまたま岡山に本社がある『山陽新聞』が社会人募集をしていて、ためしに応募したら採用され、新聞記者をすることになったのです。偶然の成り行きです。新聞社は5年でやめてフリージャーナリストの今にいたります。
 気がついたら、あれほど苦手だった作文を買ってもらって生活をしているのですから、本当に不思議です。

 あいかわらず文章は苦手です。でも書くことは必要なことだと思うようになってきました。生活のためだけではありません。
 当たり前のことですが、私たちの周りでは刻々といろんなことが起きています。頭の中にもいろんなことが浮かんでは消えていきます。文章を書くというのは、これらのおびただしい事象から何かを選んで、さらに考えて組み立てて、他人に伝わる形に作る作業です。
  作文を書くのが苦しいというのは、この考える作業の苦しみにほかなりません。考える苦しみ、考えを練る苦しみ、論理を生む苦しみです。しんどいから考えな い、見ない、言わない、書かないというのは考えることを放棄することではないか。かつての自分自身はそうだったと、いささか恥ずかしい半生を振り返って思 うのです。
 考えることを放棄すれば簡単にだまされる。福島第一原発が壊れたのは、あるいは多くの人が考えることを放棄した結果ではないだろうか、とも思っています。

 このメルマガでは、私の思いついたものを興味の赴くままに書いていくつもりです。最近は原発関連の取材が多いので、原発事故のレポートや電力会社の歴史、原発裁判といったテーマも取り上げたいと考えています。
 書くのはつらい。悩みます。悩んで、できることなら悩むことを楽しみながら記事をお届けいたします。おつきあいいただけましたら光栄です。



三宅勝久 みやけ・かつひさ
1965 年岡山県生まれ。フリーカメラマンとして中南米・アフリカの紛争地などを取材、『山陽新聞』記者を経て2002年からジャーナリスト。「債権回収屋G 野 放しの闇金融」で第12回『週刊金曜日』ルポルタージュ大賞優秀賞受賞。2003年、同誌に連載した武富士批判記事をめぐって同社から1億1000万円の 賠償を求める訴訟を起こされるが最高裁で武富士の完全敗訴が確定。不当訴訟による損害賠償を、同社と創業者の武井保雄氏から勝ち取る。
主著に『サ ラ金・ヤミ金大爆発 亡国の高利貸』『悩める自衛官 自殺者急増の内幕』『自衛隊員が死んでいく “自殺事故”多発地帯からの報告』(いずれも花伝社)、 『武富士追及 言論弾圧裁判1000日の闘い』(リム出版新社)『自衛隊という密室 いじめと暴力、腐敗の現場から』(高文研)など。
[Twitter] @saibankatuhisa
[ブログ] ジャーナリスト三宅勝久公式毒舌ブログ

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