週刊 石のスープ
創刊記念特別号[2011年9月22日号/通巻No.3]
今号の執筆担当:西村仁美
※この記事は、2011年9月に「まぐまぐ」で配信されたものを、「ニコニコ・チャンネル」用に再配信したものです。
■なんだか嫌な予感がした。
原稿を打とうといつものようにパソコンのある机について間もなくのことだった。
忘れもしない3月11日、午後2時46分頃のことだ。
揺れを感じ地震と思ったが、普段ならこの程度なら私は机を離れない。でもこの日ばかりはどういうわけかキーボードを打つ手を止めていた。そして隣りの部屋 の食卓の下に潜り込もうと動き始めたところで、揺れが大きくなった。机の下に入った頃にはさらに揺れは大きくなり、途中で突き上げるような感じがあった。
「これはヤバイ……」
そう思った。
中学生の頃、地理か何かの科目の先生に「いつ東海地震が起きてもおかしくない。明日来てもおかしくないんだぞ」とさんざん言い聞かされてきた。関東大震災 みたいにでかい地震で、東京もその被害を免れないよといった内容だった。だから東海地震がついに来たんだと思った。そして死ぬかもしれないと思った。目の 前にあった食器棚は扉が開き、皿やコップが次々に床に落ちては音をたてて割れていった。まるで川の上流から水が流れ落ちていくような感じだった。
揺れはなかなか止まらない。いつの間にか体がガクガクと震え出した。
“あー、私はあれほど書きたいと思っていたあの本を書き終えられずに、このまま死ぬのか”
そう思った。無念で仕方なかった。
そして「神様、助けて!神様、お願いだから助けて!!」と、次にはこの言葉を声をあげ祝詞のように繰り返していた。
まったく身内に対しては薄情な話だが、最初に思ったのは連れ合い(夫)や家族のことではなく仕事のことだった。本にしたいやりかけの少年事件の原稿がまだ残っていた。実は去年の十二月中にある出版社で原稿をみてもらう予定だったのだ。
そしていざ死を目の前にして助けを求めたのは自分を産み育ててくれた、最も近しい存在の親ではなく、なんと神様。宗教やシャーマニズムに関心はあるけれ ど、「神様」というより「グレイトサムシング」ならなんとなくその存在を感じられるような気がする、といった程度の人間だ。そんな私がいざ窮地に陥った 時、神様にすがりつこうとは、自分で自分に驚いた。
それから間もなくして揺れがいったんおさまった。助かった!と思った私は「神様!ありがとう」とつぶやいていた。そして情報を得るため机の下からなんとか這い出してテレビをつけ、親や連れ合いに電話をとり安否確認を始めたのだった……。
■ここを逃げてどこへ行くのか
あれから半年が経った。
今ではなんとか日常生活を取り戻している。これまでしばらく手をつけられなかった、従来のテーマにもまた取り掛かり始めた。
まだ地震や余震が続き、福島での原発事故も収束してはいない日本を僅かな間でも留守にするのは気がかりであったが、先日海外出張にも行ってきた。3・11からも相変わらず東京で暮らしている。
だが報道する立場の者としては大変お恥ずかしい話だが、冒頭の東日本大震災、その後の福島第一原発事故をきっかけに、それから数日間は東京を逃げ出そうと考えていた。
「メルトダウン(炉心溶融)は時間の問題だ」と主にネットで情報を得ながらそう思った。東海地震がいつ来てもおかしくない話も現実味を帯びていた。自分の中では報道以前の「生き死に」の問題だった。
身近なジャーナリストの中には地震があって数日後には故郷に帰った人もいた。逆に事故があってすぐ現地入りした人もいた。私はそのどちらもできないまま東京にいた。
職責と特に福島の人たち対する申し訳なさ、原発問題にしっかり取り組んでこなかった自責の念などが心を重くした。
それでも「とりあえず東京を出よう」という考えが強かったが、東京と神奈川には親たちがいた。私と都内のアパートで暮らす連れ合いがいた。親たちも連れ合いも相変わらず働き続けていた。
「原発事故で被曝する可能性があるからとりあえず逃げた方がいい」と親や連れ合いを説得しようとするが、「そんなに危ないならお前だけ逃げればいい。俺は仕事があるから仕事のあるうちはこっちで働くよ。働かなきゃ食えない。お前も養えない」と言われた。
また親たちからは「被曝するなんて大げさだ」「あれは福島での話」などと言われ笑われた。特に自分の父親からはまるで狂人扱いだった。
親たちが動かなければ彼らを残していくことはできない。もちろん連れ合いもだ。
「ここに残るしかない…」と思った。
しかしそれはどちらかと言えばネガティブで悲壮な決断だった。それとは全く逆の方向性で私に東京にいる腹をくくらせる言葉があった。それは私を大げさだと笑いもしたが、連れ合いの父親による言葉だった。
余震が続く中、日中一人でアパートの自宅にいるのが不安で、連れ合いの実家に結果的には一日だけ身を寄せた。3・11から数日後のことだ。
相変わらず原発が危ないから逃げたほうがいい、といったことを連れ合いの父親に言うと、「ここを逃げてどこへ行くの?」と冗談めかして言われた。その言葉の裏には、「そんな場所、俺たちにはどこにもないでしょ」といった意味合いが込められているような気がした。
それは、自分の父親から受け継いだ土地を守り、そこで家族経営の中華料理屋を営んでいた連れ合いの父親らしい言葉だった。食材がなくなるまで店を開き続けるとも言っていた。フライパンをふるい続けるその姿を見つめながらようやく「ハッ」と我に返ったのだ。
「私には私の仕事がある。やらなければならない役目がある」
今自分がここを逃げ出すわけには行かない。まして私は東京生まれの東京育ちだ。ここは自分の古里じゃないか。自分の仕事に戻ろう、と思った。
それで連れ合いの実家に身を寄せるのは一日で中止して、翌日にはまた都内の自分たちのアパートに戻った。その後、誰に頼まれたわけではないが、自分にできることとして、ノートとペン、カメラを持ち、都内の避難所通いを始めた。そしてツイッターに彼らの声を流し始めた。
ツイッターはミニブログと言われることもあるが、ブログよりもより簡単な操作で大多数を対象に情報発信できる。出版社や雑誌社に企画を通すには時間もかかるし、返事を待っていて取材対象である人々を取り巻く状況が変わってくることもある。
金には一銭にもならないが、生きるか死ぬかと思えるこうした状況の中、悠長に企画を通すなんてことをやっている時間もヒマもない心境だった。それでとりあ えずの情報発信手段としてツイッターを利用することにした。とにかくささやかなことでも、ルポライターとして自分にできることをなんでもしようと思った。
■「大いなる勘違い」と「目の前の現実」と
思えば私のルポライターとしての原点は、野宿生活者襲撃事件の取材だ。
事件は一九九五年十月十八日、大阪の道頓堀川で起こった。当時の報道では、野宿生活者が若者らにより襲撃され、川に投げ落とされたというものだった。
テレビのニュースでそのことを知り、いてもたってもいられなくなり取材しようと思い立ったのがその始まりだ。目の前の現実に突き動かされたのだ。
当時、私はいわゆるフリーターの走りだった。大学卒業後、アルバイトをして金が貯まれば海外を放浪する生活を続けていた。
主にアジアを歩き回っていた。
「どこから来たんだ?」
「日本だよ」
「ニッポン、ナンバー1!」
「ホンダ、トヨタ、グー」
といったことを言われた。人々は「日本」という言葉に目を輝かせた。
だがそんな自分の国、日本で現実はどうか。アジアの国々で見かけたようにやはり日本にも野宿生活者がいた。なぜそんなに豊かと言われる自分の国で野宿生活 者が生まれるのだろう。食べ物や住まいに事欠き、雨の日も風の日も路上にダンボールを敷いて寝ているような、そんな生活を強いられている人たちが、またな ぜ若者によって殺されなければならないのだろうかと思った。
とりあえず文章を書くのは当時は、わりに得意だったため、「自分にできることはこれ しかない!」と思った。また、あまり野宿生活者に関するルポも発表されていなかった時代で、「これをやるのは私しかいない」とも思った。こうした「大いな る勘違い」とこのような事件が起きてしまった「現実に突き動かされる」ようにして私の
ルポライター人生が始まった。
今回は、あの頃と違い、多少は取材経験を積んでいる。しかし被災地や被災者への経験はあの頃と同じゼロだ。それでも取材しようと思ったのは、やはりそこに突き動かされる現実があったからだ。遅まきながらも自分の職業的役目への自覚もあった。
都内で避難所への取材を始めながら、被災地の取材も模索した。幸いにも同行取材という形で、4月上旬、宮城県の岩沼市にも入れ、さらに6月には福島県の伊 達市にいる友人の協力で、福島への取材にも入ることができた。今は昔のような「大いなる勘違い」はほとんどない。「自分にしかできない」という気負いとい うか情熱はほとんどないが、自分のできることを一つでもルポライターとして書いていければいいと思っている。
■あの日を境に世界は変わった
ところで『週刊石のスープ』(当時はこの週刊誌の名前もまだ決まっていなかったが)の話は、確か一緒に同メルマガをやる渡部真さんを通じていただいたような気がする。
以前なら有料メルマガをやろうとはなかなか思わなかった。一人でやるにはまず何より意志の強さと継続力が必要だ。それに有料となると、みなさんがお金を出 したくなるような記事を書かねばならない。取材して執筆はできても編集経験がない。魅力あるメルマガを一人で作れるかどうか自信がなかったのだ。今回の場 合、一人じゃなく何人かで持ち回りでやれるのと、執筆のペースがゆるやかそうだった。「それならなんとかできるかな」と思ったのだ。そしてやはり何よりあ の東日本大震災があったことが自分の中では大きいように思う。
「今はたまたま運よく生きている。いや、生かされている。だけどこれから一秒先はわからない。だから今を大事に生きよう」ぐらいにあれから思っている。
3・11を境に私の中では世界がすっかり変わったのだ。言ってみれば、これまで色彩鮮やかなカラーの世界からグレーといった単一色の世界に変わった感じ。それぐらいの大転換が起こった。
「今これから先」のことは、もちろんそれ以前だってわからなかった。ただこのまま今の生活が続き、まあ日本人の女性の平均年齢である、八十歳代ぐらいまでは生きられるんじゃないかと漠然と思っていた。そういう幻想の上にあぐらをかいて暮らしてきた。
でももうあの日からそうはいかなくなった。原発を世界中で抱えて生きていることを自覚した。時限爆弾を胸に抱えているようなものだ。しかも福島での原発事 故はまだ収束していない。原発労働者の人々が命を削って今のこの以前と変わらないように見える「日常」を必死に守ってくれているだけのことだ。日本は地震 大国だということを身を持って痛感もした。もちろん人間いつ死ぬかわからないのはわかっているけれど、それにもましてわざわざその死期を早めることを自ら 人為的にやっているのだとも思う。
こうした中で、自分が取材したものの発表の場があるというのはとてもありがたいことだと感じている。 今これから先はどうなるかわからない。わからないからこそ今生きている自分がこの社会や私たちを生かす自然、地球に役立つことを何かしらやっていこう。そ んな思いでいる。私の場合、野宿生活者に関する社会問題やあるいは沖縄、奄美、韓国のシャーマンの自然や人々との関わりなどに関心がある。
「どうしてホームレスとシャーマンが結びつくの?」と言われることもあるが、私の中では違和感なく一つの線でつながっている。野宿生活者たちが生み出されるその社会と対極する位置にシャーマンが存在する地域共同体社会と存在感ある自然があるように思っている。
そこら辺は、またおいおい取材を通じ明かしていければいいと思う。もちろん本来のテーマ以外にもジャンルを問わず、いろんなことを取材しみなさんに紹介していきたいと思っている。
どうぞお楽しみに!
西村仁美 にしむら・ひとみ
1968 年、東京生まれ。フリーターをしながらアジアを放浪。のち、ルポライター兼フォトグラファーに転身。主に野宿生活者<や少年>に関わる社会問題、を中心に 取材。奄美や沖縄、韓国のシャーマンの自然観や世界観、チベットの精神文化などにも関心があり、取材ジャンルの幅を近年さらに広げつつある。
著書に『悔 野宿生活者の死と少年たちの十字架』(現代書館刊)『「ユタ」の黄金言葉』(東邦出版刊)『格安! B級 快適生活術』(共著/ちくま文庫)など。
[Twitter] @ruri_kakesu
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