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石のスープ
定期号[2013年2月24日号/通巻No.71]

今号の執筆担当:渡部真


渡部真 連載コラム【勝手気ままに】vol.17
「津波に襲われた高台の家と福寿草」




■半壊した家の2階で寝泊まり

 東日本大震災から3週間が過ぎ、4月に入っても南三陸町は行政が十分に機能していなかった。初めて南三陸町の中心地である志津川地区を訪れた時はすでに夜中で、街灯もなく真っ暗で何も見えない状態だったが、徐々に明るくなるにつけ、その廃墟のような街並みを見て驚いた。
 もちろん、それまでも福島県や宮城県の石巻以南の津波被害は見ていてが、南三陸の被害は、それとはまた違った様子だった。それを見れば、町行政が十分に機能できないことも仕方ないと思えたほどだった。

 南三陸町は、役場のある志津川地区、歌津地区、戸倉地区などがあるが、内陸の入谷地区を除いて、海の近くの平野部は、どこも壊滅的なほどの被害だった。志津川に次いで大きい歌津地区は、伊里前湾の目の前だ。海沿いの国道45号線「歌津バイパス」は、震災から2年が経とうとしている今も復旧できずに一部が通行止めとなっており、未だ迂回をさせられている。
 その歌津バイパスが通行止めとなっている場所は、目の前が伊里前の海、その反対が崖になっていて、崖の上の高台に数軒の家が建っている。

 2011年4月3日、千葉清子さん(当時66歳)はその崖の上の家で暮らしていた。

「最初の2晩は学校の避難所のところにいたんだけっど。避難所のなかだと、あれだから、駐車場の車の中で1週間くらい避難してたんだけっども……」

 当時、多くの避難所では、狭いところに布団を敷くスペースしか確保できず、何週間も過ごしていた避難者の中にはストレスを感じる人達も少なくなかった。その後、各避難所では段ボールや専用パーテーションなどで家族毎に仕切っている様子がお馴染みの風景となったが、震災直後は避難所もかなり混乱しており、車で過ごす人も多かった。

「車でね、とにかくね、寒くて寒くてさ。ガソリンなかったから、あんまり暖房つけてられなくってね。この家も1階は津波が来たけど、2階は使えっからって、お父さんと戻ってきて、寝泊まりしてるんです」

 昼間は近所の伊里前中学校で過ごし、夜は家で寝泊まりして過ごしていた。
 筆者が声をかけたとき、千葉さんは、津波で被害にあった1階の家具や家財道具を庭に出して整理をしていた。1階はもろに津波をかぶり、庭に向かっている窓や玄関のドアが壊れて開けっぴろげになっており、電化製品、家具、トイレや風呂、ボイラーや暖房器具も全て使えなくなってしまっていた。辛うじて難を逃れた2階だが、1階からは海からの風が入ってきてとても寒い。それでも、少しでも寝泊まりできるだけマシだと言う。

「とにかく寒いです。風が、何もないっちゃ、ほれ。がらんとしたところに2階だけだからさ。階段のとこから風がいくしね。どうしても、なんか、2階ってたって小さいなんですから、風が揺れるのでさえ地震かなって思ったりしてね。ストレスでね、精神的にも参ってるから、せめてこんなとこでも一緒にいたいなと思うんだけっども。それもほれ、不安だし。でもいまから、あったかくなってくっかなと思って、それまでね」

 当時はまだ、余震が頻繁にあった頃だった。前日にも大きな余震があり怖い思いをしたと言う。
 
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[キャプション]千葉さんの自宅。庭の先は崖になっており
その下を歌津バイパスが走る。被災した家財道具などを庭先
に出して整理していた(2011年4月3日撮影)    

 
■来ないと思っていた高台まで襲った津波

 3月11日の様子を聞いた。千葉さんは、地震が起きる直前まで何をやっていたか、記憶にない。

「なんだかさっぱり。何やってたったべ、なんだかちょうど、家にいたがらよかったな。近所の人が下(バイパスの方)にいたんだけど、地震があったりしたら、いつもちゃんと上に来る人で……。何だかあの揺れの塩梅からして、異常な感じだったからね。お父さんも、『早くのぼって来い」って声かけたりして。でも、誰も、ここまで来んのやろうねって思ってて、いっつも。それで育ったもんだから。で、上から眺めててさ……」

 千葉さんの自宅は、前述した通り崖のような高台になっている。海からは13メートルほどの高さだ。千葉さんは「自分たちから見っと、もう20メートルもあるみたいな気するんだけっども」と言うが、たしかに、その場所に立てば、ここまで津波が来たとは俄には信じられないほどの高さだ。過去の三陸の津波被害でも、この場所まで来る事はなかったと言われていた。
 津波警報は6メートルと言っていた。しかし、実際の津波は、13メートルの高台にある自宅も襲ってきた。

「今考えてみると、何が6メートルよね。でも、6メートルって言われてもピンと来なかったのよね。遠くの方から波が音無しで、スッススッス、こっちまできたから。国道に消防車は通るし、広報車が来て『早く早く』っていうのが聞こえたもんだから、『え? ここ高台だっけっども、波がここまで?』って。そしたら水が、(崖の下のバイパスを指し)あそこまで乗ってきて、あそこまで波が来る事は滅多にないんだ、これ。そこまで乗ってきたから驚いて。とにかく、水が速かった。立派なっつうか、白い乗用車が、もうプカプカプカプカと、道路いっぱいに来たのよ。そして何でだか、角材みたいなのがまた、(道路の)登り口のとこ塞いでたんだけっども、この水も見て、車見て、何だかわけ分かんなくなっちゃって……。夢中で逃げたんだよね。あと2〜3秒もおったら、その車と同じ状態で、プカプカだなぁって思って……」

 千葉さん達は、自宅からさらに高台へ車で登った。その時、目の前の崖下の海からではなく、歌津の町の方からも水が上がってきた。瞬く間に自宅が津波に呑まれて、1階部分は完全に水に浸かった。自宅の車庫に置いてあった自動車も津波で流された。さらに高台へと、伊里前中学校まで登ったが、中学校のすぐ下にある伊里前小学校まで波が来た。

 千葉さんは娘と中学校の方に逃げたが、千葉さんの夫は家のすぐ脇にある三嶋神社の高台に走って登って避難していた。

「中学校は(避難してきている)車いっぱいだったから、近くに停めて、近所の人達に『うちの家族見ねかったかぁ?』て聞いたんだけっど、『見ねかったぁ』って言われて。三嶋神社を見たって人も『神社もダメだぁ』って言ってたから、『あぁ、これは、お父さんもだめだなぁ』って思ってたの。だけっどもね、やっぱり心配だから、そこら中を見て回ったりして、そしたら神社の方からニコニコって登ってきたんですよ。『よかったぁ』と思ってさ、本当にね。あの時は、みんなパニック状態だったからさ。お父さんとはケンカもしたけど、『生ぎでだぁ』って。本当に良かった」
 
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[キャプション]三嶋神社。鳥居の先まで津波が来た
(2011年4月3日撮影)


■津波をかぶったガラクタの中で咲いた福寿草

 家族の無事は確認できたが、やはり近所には犠牲者が何人も出ていた。また、携帯電話や通信手段も確保できず、遠方の親族たちに安否を知らせる事もできなかった。4〜5日は何もできずにいたと言う。その後、仙台にいる娘や名古屋の親族と連絡が取れるようになって、互いの無事を確認できた。

「電話は通じなかったね。まさかこういうことになるとも思わねがら、お互いね。電話番号なんか電話帳に書いててもさ、携帯電話の登録とかしてなかったからね。一応ね、形ばりの緊急避難袋は持ってたんだけっど。全然ね、本当に軽く考えてて……。避難袋を2つ持ってたんだけっど、暗くなってから懐中電灯なんかあったと思って、点けてみたんだけっども、電池とか切れててさ。車のラジオだけあったっけ。だけど、ガソリンがなかったから、ずっとは聞かれなかったね」

 東日本大震災で被害にあったお年寄り達に取材をしていると、震災前から携帯電話を持っていても、それまでは家の固定電話を使う事が多く、携帯電話の電話帳のメモリー登録をしていなかった人は多い。そのために、通信手段が復旧しても、なかなか連絡が取れなかったという人達がいる。
 また、当時のガソリン不足は深刻だった。とくに南三陸町は、前述したように交通手段が遮断され、生活物資やガソリンの不足は、1カ月を過ぎてもあまり改善されていなかった。
 
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[キャプション]ガソリンを求めて並ぶ自動車の長蛇の列(南
三陸町の中心部)。右端の場所にあったガソリンスタンドも津
波で破壊され、内陸からドラム缶でガソリンを運び、足漕ぎポ
ンプで給油をしていた(2011年4月2日撮影)     

 ガソリンがないため、遠方に食料を調達に行く事もままならず、避難所などで支給される食事が唯一の食料だった。しかし、千葉さんは、家族たちの分だけ避難所で食事をもらい、自分の分は辞退していたという。

「食欲もさっぱりなくなってしまってね。でも、何だかんだって、『弁当が残ったよ』ってよこされっから、今ももらったんです。昨日のお昼に余った分だってもらったから、明日の朝食にします。まぁ、ガソリンも何とか少しずつ入れられるようになってきたから」

 娘さんたちは避難所で暮らしながら、お父さんと一緒に自宅の2階に戻って寝泊まりしている千葉さんだったが、いずれは自宅を修繕して、またこの地に住みたいという。

「何だが、いつになっか分かんねぇけど、この家直して住めるようにして早く戻ってきたいね。だから、こうした整理しておかねぇと思って、避難所にいてもやることねぇからやってんですよ。庭にあったもんも全部なくなって、花壇とかもあったんだ。そしたら、ほれ、こんなガラクタのなかさ、ほら」

 千葉さんは、黄色く咲いた福寿草を、とても嬉しそうに見せてくれた。発泡スチロールで作った植木鉢のなかで4つの蕾みに花をつけていた。

「これもかなりね、ここいっぱいに一時はあったんだけっども、さっぱりほれ。塩水かぶったのに、よくこれ咲いたなって」

 そう言って、千葉さんは涙ぐんだ。
 
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[キャプション]発砲スチロールの植木鉢に咲いた福寿草
(2011年4月3日撮影)
 

*  *  *  *  * 


■1年8か月後の再会

 千葉さんの自宅の下を走る歌津バイパスは、国道45号線の一部だ。
 これまでも、何度か紹介した国道45号線。「津波浸水想定区域」の看板があったのも、この国道だ。青森市(青森県)から仙台市(宮城県)の北端まで南北に結ぶ。総距離約510キロメートル(ちなみに、東京都庁から大阪府庁まで高速道路を使った走行距離が約508キロメートルなので、ほぼ同じ距離)。まさに、三陸地方の命に関わる「大動脈」ということが、この震災で明確になった。

 宮城県石巻市から、南三陸を通って、気仙沼市や岩手県陸前高田市などへと向かうには、この国道を使って三陸の沿岸を走る事になる。しかし前述した通り、震災直後は、南三陸の沿岸部の国道45号線は寸断された状態だったため、何度も内陸へと迂回させられていた。どの道路が使えるか、通る度に変わっていたこともあって、土地勘のないなかで、移動にやたらと時間がかかった。
 千葉さんの自宅は、バイパスと迂回路にちょうど挟まれている。普通車が何とか対面して走れる程度の細く迂回する道(トラックと対面すると、徐行しないと恐い)を高台に登り切ったところにある。
 震災後、取材を続けるなかで、何十回も通っている道だ。

 ところが、いつもタイミングが合わず、なかなか千葉さんと再会することが出来ないでいた。いつも夜になってご自宅の前を通り過ぎることが多く、家に電気が点いてるのを見るたびに、お元気かな?っと思いながら、夜にいきなり尋ねる事もできずに過ごしていた。
 そうしている間に1年8カ月が過ぎ、ようやく昨年末になって千葉さんとの再会がかなった。

 話を聞くと、取材から2カ月後の2011年6月、千葉さんは入院していた。片付けや整理を頑張りすぎて、5月頃に腰を悪くしてしまった。その腰を我慢しているうちに、今度は膝が悪くなり、とうとう歩けないほど痛みが酷くなって2カ月ほど入院した。
 当時も食欲がないと言ってたが食欲は戻らなかった。避難所いるだけでもストレスは大きかった。千葉さんに限った事ではなく、普段なら気にならないちょっとした事でも、緊張状態が続く避難生活ではあらゆる事が過敏になり、それらを我慢する事がまたストレスになる。その後、親戚が病気で亡くなった事もあり、かなり精神的に落ち込んでいたという。体重は8キロ減って、久しぶりに会ったのに、一目で痩せたことがわかるほどだった。
 入院生活や療養生活の間に、いつの間にか福寿草が咲いていた発泡スチロールの植木鉢は処分されてしまった。

 ただ、津波に襲われた自宅は、柱などの骨組みはしっかりとしていたため、壊された1階も修繕した。今では生活もほとんど戻ったという。周囲の人たちのなかには、今でも仮設住宅で暮らす人も多いが、お互いに励ましあってる。
 千葉さんは入院後、しばらく車いすを使っていたが、最近杖や歩行器を使って歩けるようにもなった。

「最近はようやく歩けるようになってきたし、いつまでも落ち込んでいてもね。なんだ、こんな話でよかったら、いつでも寄ってお茶っこさ飲んでいってよ」

 そう言いながら、穏やかで優しい笑顔で迎えてくれた。

 
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[キャプション]福寿草を見て涙ぐんだ千葉さん
(2011年4月3日撮影)


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[地図]宮城県



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渡部真 わたべ・まこと
1967 年、東京都生まれ。広告制作会社を経て、フリーランス編集者・ライターとなる。下町文化、映画、教育問題など、幅広い分野で取材を続け、編集中心に、執 筆、撮影、デザインとプリプレス全般において様々な活動を展開。東日本大震災以降、東北各地で取材活動を続けている。震災関連では、「3.11絆のメッセージ」(東京書店)、「風化する光と影」(マイウェイ出版)、「さよなら原発〜路上からの革命」(週刊金曜日・増刊号)を編集・執筆。
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