俺の棒銀と女王の穴熊〈5〉 ~将棋界の一番長い日~ Vol.8
山寺は再度の長考に陥った。パソコンの画面は棋譜しか映していない。しかし高遠の眼前には、夫の苦悩の様子がありありと浮かび上がってきた。
「もしかして、まずいの?」
よほど渋い表情をしていたのだろう、義母が切迫した声で聞いた。
「……ちょっと、まずいみたいです」
「でも、決まったわけじゃないんでしょ」
「逆転の可能性は、もちろんありますけど……」
「じゃあ、それを信じないと」
言われるまでもなく信じている。将棋は逆転のゲームだ。最後までどうなるかわからないから、将棋は面白い。まだ豊田の勝勢とまでは言えない。じっと堪え忍んで、相手の疑問手を待つ。これも一流のプロに求められる技術だ。
だが、豊田は充分に時間を残している。山寺はもう残り三十分を切っていた。
ここからさらに、高遠の胃を痛くさせる展開となった。
山寺が着手すると、ほとんど間を空けずに豊田が指す。前回の田無戦で、山寺が行った時間攻めだ。
豊田は眼鏡をかけた繊細な顔立ちで、女性人気が高いと聞く。それが今は、鬼の形相になっているに違いなかった。絶対にプレーオフに持ち込むという、若き俊英のなりふりかまわない姿勢に、山寺は抗いきれるのか。もう高遠は祈ることしかできない。
いつしか時刻は、午前零時を回ろうとしていた。
山寺はだいぶ前から一分将棋に入っている。それでも棋譜が更新されるまでの時間が、とてつもなく長かった。スピーカーから機械的な駒音が聞こえるたび、神経が削られるようだった。
豊田は間違わない。終盤を正確に指すのがトッププロの条件だが、検討室が最善と判断した手順をも凌駕する、光速の寄せを目指していく。高遠は彼の指し手に、強さだけでなく華々しさも感じてしまった。真の天才とはこういうものだという、きらめくような将棋。
華々しさ、きらめき。何年も一緒にいるが、夫には感じたことがないもの。それは――名人の資質なのだろうか。
山寺はついに反撃の機会を与えられないまま、投了を告げた。
「……行成さん、負けました」
「ああ、そう」
眠そうな目をしながらも高遠の側でじっと待っていた義母は、一気に限界が来たような声を出した。
「まだ、次があるんでしょう? プレー、なんだっけ」
「プレーオフです。相撲でいう優勝決定戦です」
「なるほどね。じゃあそこで頑張ればいいじゃない」
大きなあくびをして、義母はゆっくりと寝室に入っていった。
ひとりきりになった高遠は、両手で目を覆った。何度もお茶を飲んだのに、口の中がカラカラに乾いていた。
攻め合いになってからは、ほとんど一方的だった。こんな負かされ方をして、プレーオフに影響がないわけがない。そこで頑張れば? どう頑張ればいいというのだろう。
今日が土曜日だったのは幸いだった。ひどい疲労感とともに床についた高遠は、午前九時まで眠った。目覚めたとき、山寺はまだ帰宅していなかった。順位戦の日はいつも外泊だが、手ひどい負けをしたときは朝まで飲み歩く。そして昼まで眠りこけ、帰宅は夕方を過ぎてからになる。今回もそのパターンであることは明白だった。こういうとき、メールで確認などしないのが妻としての配慮である。
「お父さん、負けちゃったの?」
お気に入りのアニメを見ていた日向が、母の姿を見るや眉尻を下げた。父親の仕事のことで、こんな顔をするのは初めてだった。
「うん、負けちゃったのよ」
「もしかして、僕が応援しなかったから? 寝なきゃよかった!」
山寺が長考していたとき、さっさと寝室に入ったことを後悔しているらしかった。……何かを後悔するという感情も、もしかしたら初めて見たかもしれない。
「ひなくんのせいじゃないわよ。何も気にすることはないわ」
義母がすかさずフォローするが、日向の表情は晴れなかった。高遠はどうにか、当たり障りのない言葉をかけた。
「まだ次のチャンスがあるのよ。そこで勝てれば、日向は伊達名人との写真を撮れるからね」
「うん……」
あとは黙ってアニメを見続けていた。高遠は小さな棘が刺さったような痛みが、胸に生じるのを感じていた。
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