【本格将棋ラノベ】俺の棒銀と女王の穴熊

俺の棒銀と女王の穴熊〈5〉 ~将棋界の一番長い日~ Vol.7

2015/06/23 18:00 投稿

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     ☆

 山寺の生活に、これといった変化はなかった。
 将棋の研究は日向が学校に行っている間、数時間程度。それが終わったら読書やテレビ鑑賞。夕方から夜にかけて日向の遊び相手をしてやって、日付が変わる前には必ず就寝する。連盟から対局以外の仕事を依頼されればすべて引き受け、たまに将棋カフェで女性客の相手をしては目の保養をした。提案したフィットネスクラブには通うことはなかったが、まだ衰えない寒さにやられることもなく健康体を維持している。
 紗津姫の言ったとおり、今の山寺にとっては、この自然体が一番のようだった。体に無理をさせず、家庭を、プライベートを大切にする。人間としての充実が、棋士としての円熟に繋がる。それが昇竜のごとき若手棋士たちに対する、最大の武器。ここに至っては、高遠もそう信じるよりなかった。
 そうして、将棋界の一番長い日とも呼ばれるA級順位戦ラストの日を迎えた。
 また特別営業体制で、紗津姫に大盤解説を依頼しようと思っていたが、今回はすでに先約があった。栄えある将棋会館のゲストである。前回のラス前もたいそうな盛況だったようだが、話題沸騰のアイドルが来るとなれば、あっという間に席が埋まってしまうだろう。
 ともあれ、他の棋士に解説を依頼する気にもならず、本日は通常どおりに営業して、夕食前には帰宅した。午後八時頃にはすべての家事を片付け、ようやくパソコンの前に座ることができた。といっても、ちょくちょくモバイル中継でもチェックしていたから、おおよその流れは掴めている。
 横歩取り――数ある戦法の中でも、もっとも激しい展開になり、短手数で決着が付くことも多い。女流同士の対局ではあまり見られないのだが、その激しさを避けようという姿勢が、もしかしたら男性棋士との差なのかもしれない。
「葉子さん、行成はどうなってるの」
「どうなってるのー」
 義母と日向がパソコンを覗きに来る。普段は山寺の棋譜中継があっても見ようとはしないが、名人挑戦がかかる今夜だけは特別らしかった。素人も惹きつけられるほど、名人という言葉は胸に響くのだ。
「ちょうど勝負どころって感じです。まだどちらが優勢とは言えません」
 山寺の妻になってからというもの、順位戦ラストの日はいつも落ち着かなかった。たいていの場合、降級候補に数えられていたからだ。しかし今回は、初めての名人挑戦が現実となるかもしれない。
 もし負けても次のプレーオフがある。そう思ってはいても、例年以上に落ち着かない。今日で決めてほしい、ただそればかりを祈った。
 現在は山寺の手番。ここで今日一番の長考に入っている。三十分経ち、一時間が経った。それをじっと見ていられるほど、子供の日向が我慢強いわけはない。さっさと風呂に入って寝室に引っ込んでしまった。義母はテレビを見ながら、時折様子を伺ってくる。
「勝負がはじまるのって、いつだったかしら?」
「午前十時です」
「じゃあ、もう十時間以上も戦ってるの!」
「この順位戦は、特に長いですから……。決着は日付が変わってからになるかもしれません」
「せっかくだから、今夜は待っているわよ。お茶でも飲む?」
「ええ、いただきます」
 熱いお茶を飲みながら、義母は日向の眠る寝室に目を向ける。
「こんな大変な仕事、絶対にひなくんにはやらせたくないわね」
「……ええ、そうですね」
 半日以上も、目眩がするほどに脳味噌を働かせる。勝てればいいが、負けたときの絶望感はどれほどのものか。山寺も若手のC級時代から、その絶望を何度となく味わった。大優勢からの逆転負けで昇級を逃したこともあった。そのとき、プロを辞めたくなったとさえ思ったという。
 だが、辞めなかった。叩きのめされるたびに這い上がり、歯を食いしばって、彼は今この大舞台に立っている。もうじき名人に手が届く――。
 一時間半の長考を経て、山寺が動いた。相手玉に積極的に迫る一手。
 しかし豊田は、わずか数分の考慮で切り返してくる。攻め合い、一手差で負かすと踏み込んだ手だ。
 ――それは高遠の目から見ても、好手ではないかと思えた。「これは山寺さん、見落としていたかもしれません」と、棋譜コメントにも他の棋士の言葉が追記される。
 棋譜コメントというものは観戦者にとってはこの上なくありがたいが、こうした場合は……目を背けたくなる。劣勢。その冷酷な事実を否が応でも突きつけられる。

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