【本格将棋ラノベ】俺の棒銀と女王の穴熊

俺の棒銀と女王の穴熊〈5〉 ~将棋界の一番長い日~ Vol.6

2015/06/07 13:00 投稿

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「ちょっと昼寝する」
「まだ寝足りないの?」
 あくびで返事して、山寺は寝室に引っ込んでしまった。仕方がないので高遠はパソコンの前に座り、ブログの更新作業に入る。昨日は写真もたくさん撮った。伊達と紗津姫の写真を載せれば、またお客も増えるだろうという読みである。
 そのあと、ふたりにお礼のメールを書く。伊達からはすぐに返信が来た。

『お疲れさまでした。こちらこそ楽しかったです。
 今後もお力になれそうなことがあれば、遠慮なくご相談ください。』

 昨日は解説の傍ら、ずいぶんカフェのことを褒めてくれていたし、単なる社交辞令ではなさそうだった。
 将棋普及のために何ができるかと、あの名人はおそらく自分以上に考えている。
 しかしその普及の第一歩が、引退なのだ。
「やんなっちゃうわよねえ」
 思わずつぶやいた。やれることはやってしまった。記録には興味が持てない――そんな理由で、彼は名人戦で負けたら引退すると発表した。勝負への熱意を失ったという意味では高遠と同じだが、あまりにも立っている次元が違う。
 名人などタイトルのひとつにすぎない――そう言ってのける棋士も中にはいるが、やはり将棋といえば第一に名人だと高遠は思う。一番将棋に燃えていた十代の頃、なぜ自分は名人を目指せないのか、男じゃないのかと無意味な怒りを抱いたこともあった。
 最強、頂点、最高峰。どれだけの賛辞を並べても足りない。
 その栄誉ある座を簡単に投げ打つ! どうしてそんなことができるのか? 高遠はまだ納得できないものがあった。だが――あの当代一の名人を引退に追い込むのが自分の夫ならば、この上ない喜びではないのか。
「そうよ、あの人はきっとやる――」
 とにかく一ヶ月後だ。ラストの相手は――奇しくも一敗差で追う豊田八段。勝てれば名人挑戦、負けても同星であらためてプレーオフ。変則的な二番勝負と思えばいい。山寺が有利な状況なのは間違いない。
 肝心の将棋については、何ひとつアドバイスはできない。ならば自分の為すべきことは――まずは美味しい食事を作ること。いつもよりずっと早いが、高遠は夕食の仕込みを始めることにした。
 しばらくして山寺が再び起床し、ダラダラと再放送のドラマなどを見始めた。夕暮れ時になると日向と義母がほぼ同時に帰ってきた。順番に風呂に入ってもらって、午後六時きっかりには食卓にディナーを並べることができた。
「お、今日はなんか豪勢じゃないか」
「昨日勝ったお祝いってことで。お義母さん、何を飲みます?」
「んじゃ、日本酒でもいただこうかね」
 昼にもレストランで軽く飲んできたという義母は、食事が始まるや機嫌よさそうに御猪口を傾けた。
「しかしまあ、よくここまで来られたもんだねえ。結果的には、棋士になってよかったんだね」
「……お義母さんは、行成さんが棋士になることには反対だったんですっけ。亡くなったお義父さんも」
「そりゃねえ。青春すべてを無駄にする可能性だってあったのよ。中学生で……ええと、奨励会だっけ? そんなの、わけわからないじゃない。学校の先生や同級生にも、あまり理解されてなかったわよね。高校にも行かないで、どれだけ心配させたか」
 山寺が四段昇段を果たしたのは、十九歳の春。決して遅いプロ入りではないが、進学せずに四年あまりも、報われるかわからない修行に没頭していた。それに昔は、伊達名人のような将棋ファン以外にも知られるスーパースターはいなかった。子供が将棋棋士を目指すことに、不安にならない親など珍しかっただろう。高遠も似たようなものだ。そんなので食っていけるのかと、さんざんに言われた。
 高遠も山寺も、最終的には両親の反対を押し切ってプロになったが、理解を得られずに棋士を諦める。そんな子供は、きっと今もいるのだろう。それを少しでも減らすことも、自分の為すべき仕事だ――。
「日向をプロ棋士にする予定はないから、そこは安心してくれよ」
 ワインをちびちびとすすりながら、山寺は息子に目を向ける。日向はその視線には気づかず、ひたすら料理をかき込んでいた。
「そうなの? ひなくんは、棋士になりたいとは思わない?」
「うん、ならない。よくわかんないし」
「それを聞いて、おばあちゃんはホッとしたわ」
「何がきっかけで心変わりするかは、わからないけどさ。どうしてもプロになりたいとか言い出したら、そのときはまた考えさせてくれ」
「あ、そう」
 将棋の話題はそれっきりになったが、高遠は夫の言葉を胸の内で繰り返していた。
 どうしてもプロになりたい――日向がそんなことを思う日は来るのだろうか。来たとしたら、自分はどうするのだろうか。無邪気な笑顔を見つめながら、高遠もワイングラスをあおった。

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