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壮行会をしようと電話をかけてきたのは、山寺の一番弟子である出水摩子だった。
トーナメントプロ一筋だった山寺が、昨年から棋士志望――特に女性を積極的に弟子に迎えるようになったのも、実りあるプライベートの一環。まっすぐに、純粋に将棋に向き合おうとする若者を見るのは、それだけで刺激になる、とのことだ。
手取り足取り教えることはしないが、弟子たちを信じているからだ。本当に才能が、そして情熱があるなら、何も言わずとも伸びる。この四月から女流プロデビューを果たす出水などは、もう確実に自分より強いと高遠は思っていた。
「そういえば、あなたのデビューのお祝いもしてなかったし、一緒にやろうか」
「いや、女流3級なんて、まだ仮免ですし」
女流棋士は3級からスタートするが、二年以内に規定の成績を上げなければアマチュアに逆戻りとなる。もっとも、出水に関しては何ひとつ心配していなかった。
「自分のためだけの壮行会ってなったら、あの人も逆にプレッシャーを感じちゃうかもしれないから。いいでしょ?」
「そういうことなら……」
「にしても、意外ね。あなたがこういう気遣いができる子だとは思ってなかったわ」
出水という少女は、どこか人を寄せ付けない雰囲気があった。女流タイトル全制覇、さらに男性棋戦での優勝を目標に掲げる彼女には、それこそ将棋の他には何も興味がないし、興味を持ちたくないという、一種の冷徹さを感じていたのだが。
「師匠に名人になってもらいたいのはもちろんですけど、名人の一番弟子って呼ばれるようになれば、私ももっとやる気が出るんじゃないか……」
「あらあら!」
「って、紗津姫ちゃんが言ってて」
「……あらあら」
これはこれで出水らしかった。ともあれ、そういう俗っぽい欲を持つのは歓迎だ。人間味があっていい。
「それじゃ前日に、うちのカフェでってことでどう? 詳しくはまたメールするわ。神薙さんも誘っていいわよ」
「え? ……ありがとうございます! えへへ、紗津姫ちゃんとパーティー!」
これであのアイドルを都合よく呼べる、などという打算には、気づく由もないだろう。他でもない日向が、彼女に会いたがっているのだ。
――先日の順位戦ラスト以来、日向が急に将棋に興味を示しはじめた。
昨晩は、将棋を教えてと初めて自分から言ってきた。なぜと聞いてみると、お父さんに絶対に勝ってもらいたいから、と言う。
今度こそ途中で寝たりしないで、父親を応援したい。そのためには自分も将棋を知る必要があると、子供なりに考えたらしい。
何がきっかけで、将棋を覚える気になったのか、高遠はもう記憶にない。父親が名人に挑戦しそうだから――この日向のケースは、おそらく前例にないだろう。
プロになりたいと言ったわけではないので、義母は何も口出ししなかった。とはいえ、いささか複雑な気持ちだ。今までそうだったように、将棋に興味がなければ、山寺が勝利しても敗北しても、たいして関心を示すことはないはずだ。
だが日向は、知りたいと思ってしまった。父が歩もうとする栄光への道を。同時に知らざるを得なくなった。勝負に敗れることの、身がちぎれるような怒りと悲しみを……。そのときが来るのが、プレーオフの日でないことを祈るしかない。
壮行会の夜、高遠は家族全員でカフェへと向かった。日向を仕事場に連れてきたことはないし、義母も開店したての頃、一度だけ来たきりだが、今夜はこのふたりの応援も必要だ。店を開けて明かりを点けると、日向は歓声を上げた。
「お母さん、こんなところで働いてたんだ!」
「そうよ。テーブル全部に将棋盤がずらっと並んでね」
「葉子さん、今日は別に将棋をするわけじゃないんだろ?」
「ええ、行成さんを励ます会ですから」
「ふふん、豊田くんはこんなことはしてもらってないだろうな! ひとり寂しくコンビニ弁当でも食ってるに違いない」
山寺はすっかり気をよくしていた。食事もそこそこに、研究に明け暮れている可能性もあるが――こんなときまで相手のことを考えても仕方がない。豊田の顔は、綺麗さっぱり頭の中から追い出した。
やがて、出水を筆頭に弟子の研修会員たちがやってきた。特別ゲストの神薙紗津姫も伴って。
「おうおう、僕のためにこんなに集まってくれるとは! 幸せ者だなあ。出水くん、ありがとうな」
「先生、お礼は明日のプレーオフに勝ったらにしてください」
「それもそうか。じゃあ今夜はひたすら僕を元気づけてくれ。あ、出水くんもだな。来月から晴れてプロデビューだ。一番最初に取った弟子が、こうもあっさりプロになってくれるとは、僕も鼻が高い」
拍手が鳴った。紗津姫がふんわりした微笑みを浮かべ、手を叩いている。他の弟子たちも、同調して拍手していく。
「ああん、紗津姫ちゃん、ありがとう! あなたのおかげよ」
出水は勢いよく紗津姫の腕に抱きつき、頬にキスをする。以前、神薙さんとずいぶん仲がいいのねと言ったら、愛してますと返された。冗談かと思ったが、意外と本気なのかもしれない。
「高遠先生、私までお招きいただき、ありがとうございます」
「いえいえ。実はうちの子がね、日向っていうんだけど、あなたに会いたがってて。ほら、この人が神薙さん」
日向はつぶらな瞳で見上げて、一言。
「すごいおっぱい!」
「こ、こら! ごめんなさいね。まったくもう」
「ふふ、日向くんも将棋に興味があるの?」
「うん! ちょっと前から」
「そうなんだ。明日はお父さんを応援するのね」
「僕が応援すれば、絶対勝つよ」
将棋に、勝負に絶対はない。しかし、まだ子供は知らなくていいことだ。
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