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電将戦を見たのがきっかけで、将棋ファンになった人が増えた――この事実だけを取っても、プロ対コンピューターという、言わば異種格闘技戦の意義は達成されたといっていい。
本来の異種格闘技戦とは、異なる格闘技の選手が共通のルールで戦うことを指すが、電将戦は人間と機械という異なる種が戦う。見世物としてこれ以上刺激的なものはなかった。将棋の歴史上、これほどまでに世間の注目を集め、喧々諤々の議論を巻き起こしたイベントは後にも先にもないだろう。
――しかし、その刺激にさえ、人々は慣れつつあった。
「ほんのちょっと前まで、プロが機械に負けることは信じられなかったとか、それこそ信じられないよなー」
「あたしたち、そのときは将棋やってなかったしね」
電将戦ファイナル最終局当日、ニッコファーレの大盤解説会に仲良く当選した来是と依恋は、開会までのんびりと会話を交わしていた。ふたりはつい昨年、ほんの些細なきっかけで将棋を始めた。電将戦の人気とは無関係のところで。
だから、プロが初めてソフトに負けたときの衝撃を知らない。もちろんニュースで取り上げられていたから事実としては知っていたが、所詮自分には何の関わりもないことだった。
「紗津姫さん、あたしたちに言ってたわよね。プロがソフトに負けるのを、将棋ファンとして目の当たりにしなかったのは、もしかしたら幸せだったかもって」
「みんな、よっぽどショックだったんだろうなあ」
来是はそのXデーともいえる日の動画を見たことがある。プロが頭を下げた瞬間、ニッコファーレの会場はお通夜と化し、あまつさえ聞き手の女流棋士が、現実を受け止めたくないというように涙を流した。
さらに一部のファンが、傷心のさなかにあるプロに、塩を塗り込むような言葉を浴びせた。プロの恥さらし、と。
だが――今ではそんな光景が見られることもない。
プロでもコンピューターに負けて当たり前という空気が、完全に浸透した。プロが機械に蹂躙されることは、刺激的でもなんでもなくなった。
ならば今日も、その慣れてしまった光景を見るだけ?
他の大多数の観客は、そう思っているかもしれない。しかし少なくとも来是は違った。
「大熊五段は負けない。きっとやってくれる!」
「別に根拠はないんでしょ?」
「ない! でも、きっとだ!」
将棋を始めてたった一年の来是だが、この競技に偶然などという要素が皆無に等しいことは存分に学んできた。まして相手は、ミスをしないコンピューター。
それでも――土壇場に追い込まれたそのときこそ、人間の底力は発揮される。完璧な機械をも凌駕する。そう信じてやまなかった。
「バカなこと言ってると思うか?」
「ううん。そんな来是が大好きよ、あたしは」
「な、なに言ってんだよ!」
そのとき、電将戦の開催を告げるアナウンスが流れた。
ホールの周囲に張り巡らされたディスプレイが、光と疾走感にあふれる映像を映し出す。次元をワープするような、宇宙を飛来するような感覚を来是は覚えた。そう、これより披露されるのは人知の究極にある対決。常識を遠く離れた景色こそ見せてほしい――。
拍手とともに、解説の棋士と聞き手の女流棋士が登壇する。
最強の名人・伊達清司郎。先日、勝数規定により昇段したA級の常連・山寺行成九段。女流最多タイトル獲得の師村美智女流六段、棋界ナンバーワン美女とメディアでも紹介された川口梨々女流初段。最終局だけあって、実績、人気面で最強の布陣を用意してきた。
まずはNHK杯の聞き手でも活躍する師村女流が、安定の語り口で挨拶し、伊達に話を振る。
「予想外のトラブルで、大熊五段がピンチヒッターとして対局することになったわけですが……どんな対策を用意しているんでしょうね。SHAKEとは普段から自宅で対局していたということですが、まずはそこに注目したいと思います」
「それにしても伊達先生、名人戦の直後でお疲れではないですか?」
「ふふ、この一大イベントを逃すわけにはいかないでしょう。ずいぶん前から、スケジュールを押さえてましてね。ぜひ私に解説させてほしいと願い出たら、OKしてくれたんです」
おおー、と歓声が上がる。伊達は数日前、名人戦の第一局を戦った。失冠すれば引退と発表しているだけに、この電将戦以上の注目度だったが、およそ六十手という驚愕の短手数で勝利した。なんだかんだで防衛するのでは、と早くも囁かれている。
ディスプレイの映像は対局場へと移る。これまでは有名史跡などを転戦してきたが、ラストを飾るのは総本山の将棋会館。普段は仕切られている大広間をぶち抜き、電将戦仕様の特設対局室にしている。
そんな大がかりな設営をしなければならない要因が、今や将棋ファンにはおなじみとなった鈍色に光るロボットアーム。将棋ソフトの入力に応じて駒をつまみ、正確に着手することができる、現代日本の技術の粋を尽くした逸品だ。会館のエレベーターに収まるサイズに分解できるのが、さりげなくも重要な構造である。
ロボットアーム、将棋盤、その脇には記録係と立会人。SHAKE開発者の瀬田もすでにパソコンの前に着席している。彼らを多くの報道陣が取り囲んでいる。
そうして最後に、彼が登場した――。
「うおおおおお?」
来是の興奮はいきなり最高潮に達した。これほどまでに棋士の姿をかっこいいと思ったことはなかった。
羽織袴を身にまとい、戦士の顔で大熊大吾は現れた。〈和服キター!〉とニッコ動ユーザーも弾幕を飛ばす。
「これは……何とも気合いが入っているようで」
「うわあ、カッコいいですねえ!」
山寺が息を飲めば、川口は立場を忘れたかのように浮かれている。
意外だが、棋士が和服で対局することは、タイトル戦以外ではほとんどない。これまで電将戦ファイナルを戦った若手たちも、皆スーツだった。それは単に、慣れないものを着ては指し手が鈍るという考えもあっただろう。だが大熊は、この戦いはタイトル戦に匹敵する名誉であり、見事戦い抜いてみせると、強烈な決意を全身から放っていた。
対局室の面々に一礼してから盤の前に正座した大熊は、気息を整えると駒を並べはじめた。大橋流でひとつひとつ厳かに、寸分の狂いもなくマスの中央に配置されるように。
大熊の駒が並び終わると、ロボットアームも機械音を響かせながら、大熊以上に正確無比に駒を並べる。機械に感情はない。それでもこの時点から人間との競争を始めているかのようだった。
開戦の準備は万端整った。ニッコファーレはもう誰も口を利かず、そのときを待った。
来是は何もしていないのに心臓が熱くなった。大熊のファンになって半年。何と充実した時間だっただろう。そして今、彼の棋士としての集大成を目撃することができる――。
「定刻になりましたので、大熊五段の先手ではじめてください」
立会人の声。お願いします、と大熊の静かな声が聞こえた。ロボットアームもゆっくりとお辞儀の動作をした。花火のようにいくつものカメラのフラッシュが瞬いた。
十秒、二十秒、三十秒――目を閉じたまま、大熊は微動だにしなかった。精神統一でしょうか、と師村が口にする。ディスプレイいっぱいに映る棋士の顔は、それだけでたとえようもない凄みがあった。
ちょうど一分が経過して、大熊は目を見開いた。腕が盤に――その端に伸びた。
あっ、と驚きの声を発したのは川口女流。再び対局室を覆うフラッシュ。
▲1六歩。まさかの初手端歩――。
「マジで? おおお……! やった、やったぞ」
「何がやったのよ」
依恋の問いかけに、来是は答えられない。自分でもよくわからない。だが、心を震わせる何かがその端歩突きには確固として存在していた。これが人間の将棋だ。理屈はどうでもよく、ひたすらにそう思った。
そんな来是と違い、理路整然と見解を示したのは伊達だった。
「なるほど、最初から後手のつもりで戦う気なのかもしれません。こう、端歩を突いていれば、それが働くかどうかはわかりませんが、後手のように駒組みができると」
「しかし、将棋は先手が有利と言われていますが、なぜそれを捨てるようなことを?」
川口がすべての将棋ファンを代弁するように聞く。彼女は場を盛り上げるためではなく、本心で戸惑っているようだった。
「統計を見ればそうですが、そこまで決定的な差がついているわけではありません。僕も先日の名人戦、後手で勝ちましたから」
「ああ、そういえば」
山寺が頷く。その将棋は相手の構想ミスもあったとはいえ、伊達の巧みな駒運びが光った会心譜だった。
「ここ最近、相矢倉の後手番が、一時期に比べてかなり盛り返している印象です。だから名人戦でも採用してみたんですね。大熊さんも、同じことを考えているのかどうか」
ほどなくロボットアームが、SHAKEが△3四歩を着手した。角道を開ける王道の手だ。落ち着いた表情の瀬田が映し出される。最強ソフトの生みの親として、大熊のあらゆる将棋を受け止めようと決意しているだろう。
だが――こんな展開は絶対に想定できたわけがない。
続く三手目が指された瞬間、悲鳴に似たざわめきが会場を走った。今度は来是も興奮するより困惑した。ステージ上のプロたちも声を失っていた。
▲4八玉。ありうるはずもない玉上がり――。
【図は▲4八玉まで】
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