俺の棒銀と女王の穴熊〈5〉 ~史上最躍の棋士~ Vol.13
そうして土曜日――東京に降り立った大熊は、六本木のイベント会場「ニッコファーレ」へと向かっていた。本来この日は将棋教室を開く予定だったが、やむをえず中止した。楽しみにしてたのに、とわざわざメールで不満をぶつけてくる生徒もいた。しかし子供たちも、理由が明かされれば納得してくれるだろう。
現在、別の会場で副将戦が戦われている。プロの二勝一敗で迎えた第四戦、人間側の初の勝ち越しがかかった大一番。モバイル中継をチェックしていたが、横歩取りの戦型からコンピューターが終始優勢に立っており、プロの敗北は時間の問題だと思われた。ここで勝ち越しを決めてくれれば、大熊もグッと気が楽になったのだが、期待はもろくも崩れそうだ。
ニッコファーレに到着し、スタッフの案内で控え室に移動すると、瀬田がひとりモニターを見つめていた。大熊に気づくと、うっすらと笑みを浮かべた。
「やあ、よく来てくれた」
「来ちまった」
いつも電話やメールで連絡を取り合っていたが、顔を合わせるのはずいぶん久しぶりだった。瀬田は記憶にあるよりも、少し老けて見えた。もっとも、自分も同じ印象を与えているはずだ。
こうして懐かしい再会をしても、何も話すことはなかった。遠い会場から伝わってくる真剣勝負の緊迫感が、ふたりの口を閉ざしていた。それでも無言に耐えきれず、大熊はどうにか話題をひねり出した。
「大将戦のこと、他の人は……」
「まだ誰も知らないみたいだ。大盤で解説している棋士たちも」
「……こうして誰もいない部屋に隔離されてるのが、いい証拠か」
説明はおそらく、真岡啓介六段がするのだろう。連盟理事であり、電将戦関係の仕事を一手に取り仕切る彼からは、もちろん事前に確認があった。本当にいいんですか、あまりに辛い戦いだ、と何度も念を押された。伊達名人とは違い、大熊が代打で出れば盛り上がる、などという単純な考えはないようだった。
皆が皆、伊達のようでは困る。若き理事の真摯な態度に大熊は好感を持った。播磨八段の欠場で神経をすり減らしているであろう彼を安心させるためにも、いい将棋を見せたいと返事をしたのだった――。
やがて、副将戦に決着がついた。棋界随一の研究家として知られるプロが、王手をかけることすらできず、投了に追い込まれた。観客の溜息がこちらまで聞こえてくるようだった。
圧勝。隙がなさすぎる。それでも電将トーナメントでは準優勝だった。さらなる怪物に敗れた。
SHAKEは――あまりにも底が知れない。普段の練習ではいい勝負になることもあり、勝ちきったこともある。しかし自宅で使用しているのは、いたって平均的なスペックのノートパソコン。電将戦では最新モデルのハイスペックが用意される。当然、棋力も大幅に底上げされるのだ。
ただでさえ、大熊大吾が勝てると思っている人間は――いないとは言わないまでも相当に少ないだろう。自分自身、まったくもって絶望的な戦いだと認識している。
しかしこの世に絶対はない。絶対に勝てないということはあり得ない。
対局会場での対局者インタビューも終わり、いよいよニッコファーレのステージに真岡理事が登場した。対局者インタビューには、次局の棋士も同席するのが慣例だったが、播磨八段の姿がなかったことで、会場にはすでに嫌なムードが立ちこめていた。
ついに播磨八段の欠場とその経緯が静かに説明されると、観衆はどよめき、解説の棋士も聞き手の女流も言葉をなくす。
電将戦は最後までやらないのか? 引き分けで終えるつもりか? 誰か代わりには出ないのか?
――さあ、答えを示しに行かなければ。
「大熊さん、瀬田さん、ステージへどうぞ」
スタッフの呼びかけに応じ、ふたりは同時に立ち上がる。
「クマ、緊張するなよ」
「お前こそ」
壁一面にLEDディスプレイが設置されたホールは、とてもまぶしかった。ニッコ動のコメントがリアルタイムで流れるようになっているが、白色の弾幕に次ぐ弾幕で支配されていた。
今の将棋ファンは、こんなSF的な空間で将棋を楽しめるのか。現役のうちにこのような場に来ることができて、大熊は胸がいっぱいになった。一方、理事としての務めを冷静に果たそうとしていた真岡は、さらに大きくざわめく観客を前にして、いささか緊張した面持ちになっていた。
「ご紹介します。大将戦の対局者、大熊大吾五段と、SHAKE開発者の瀬田洋二さんです。まず、播磨八段の代わりの対局者が大熊五段になった理由から説明します。瀬田さんが元奨励会員ということは、ご存じの方もいらっしゃると思いますが、大熊五段と瀬田さんは、実は幼馴染であり、奨励会の同期でもあり……」
瀬田が奨励会を退会してからも交流は続き、やがて大熊はSHAKEの開発に協力するようになった。日常的にSHAKEとの練習を行っており、単純な対局数では播磨八段を上回る。ゆえにピンチバッターとして適任者……ひととおりの説明が終わると、真岡は大熊にマイクを手渡した。
肝心なことは、自分の言葉で伝えなければ。腹に力を入れて、大熊は期待と不安の入り交じった視線を送る将棋ファンたちを見据えた。
「みなさんこんにちは、大熊です。突然のことに驚かれている方がほとんどだと思います。私も最初に打診されたときは、まるで現実感がありませんでした。そもそも私は……みなさんもご存じのように、引退の瀬戸際にある崖っぷちの男です。A級棋士並みに強い、そんなことは間違っても言えない。他にいくらでも適任者はいるのではないか。そう思っていました。しかし……私は他の誰より、SHAKEと付き合い続けてきました。対コンピューター戦は、人間対人間とは違います。であるならば、純粋な棋力以上の何かが求められる。その何かが私にあると、信じてくれた人たちがいる。そのひとりが……この瀬田でした。瀬田は幼い頃からライバルで、俺たちでタイトル争いをしようなどと夢を見ていました。彼が奨励会を退会したとき、もう一緒に将棋を指すことはないんだなと、とても寂しくなったものですが……こんな形でもう一度勝負できるとは思いませんでした。こうしてこの場に立ってみると、なんだかそのことが……嬉しくなってきました」
きらびやかな舞台に立っているせいか、子供の頃のときめきが蘇っていた。
将棋ファンの視線を一身に浴びながら、タイトル戦を共に戦う。この電将戦は、間違いなくそれに匹敵する夢の舞台。誰にも誇れる栄誉。
「えっと……私ばかりしゃべるのもなんなので、あとは……」
こみあげてくるものをごまかしながら、瀬田にマイクを渡した。その表情は大熊と対照的で、とても晴れやかだった。
「奨励会をやめたあと、しばらくは将棋盤を見るのも嫌でした。それがどうしてプログラマーになって、将棋ソフトの開発なんてことを始めたのか……。やっぱり、心の底から将棋が好きだったんですね。忘れられるわけがなかったんです。もちろん最初は、これで一旗揚げようなんて考えてはいなかった。それが、こんな素晴らしい舞台に……しかも最終戦の対局場は、将棋会館。あれほど夢見ていた将棋会館で、戦うことができる。そして相手は、かつてライバルだった男。我ながら、こんなドラマはないなって、思っています。今はただ、みなさんにいい将棋をお見せしたい。ただそれだけです」
誰かが拍手を鳴らした。瞬く間にホール全体に伝播し、祝福の花火が鳴るようだった。
プロ対コンピューター。その図式を支えているのは、結局は人間だ。誰もが、心ある人間のドラマを見たいのだ――。
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