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――いったい何を言っているんだ。大熊は血の気が引くような感覚に囚われ、受話器を落としそうになった。身体中が震えてきた。
「なにとぞ、大熊五段にお願いしたく」
「いや、だからって、どうして私なんです? もしもの場合に備えて、代わりの棋士がいたはずでしょう」
「さすがにこのギリギリのタイミングでは、何の準備もできていないからと、固辞されてしまいまして……。しかし大熊さんならば対応できるはずだと、瀬田さんが」
それはニッコリ動画の電将戦担当からの電話だった。
まず伝えられたのが、播磨佑八段が交通事故に遭ったこと。足を骨折し、全治一ヶ月の重症という。入院を余儀なくされ、将棋どころではない状況となっていた。間もなくに迫っている電将戦には、もちろん出場できない。
電将戦の大将戦はA級棋士が務める。しかしその棋士が、ほぼ同じ時期に行われる名人戦の挑戦権を獲得したらどうなるか、という問題があった。どちらを優先させるべきかは問うまでもない。そういった場合に備えて、他のA級棋士が代役として用意されていることは極秘事項でも何でもなく、ファンの間にもよく知られていた。
播磨の名人挑戦の目は早々に消えていたので、対局相手のソフト――SHAKEの対策に集中する時間も充分にあった。代役に指定された棋士も、自分が出ることはないだろうと安心していたはずだ。
それが、ここに来て予想外すぎるアクシデント。盛り上がってきた電将戦ファイナルが、最後まで完走できるか否かの瀬戸際。とはいえ――本来なら自分には何の関わりもないことのはずだ。
「どうして瀬田がそんなことを……いや、私と彼の関係を聞いたんですか」
「はい、大熊五段が瀬田さんとお知り合いだったとは驚きました。しかもSHAKEの開発に協力なさってきたと。普段からSHAKEを相手に練習もしていると」
「……ええ、そのとおりです」
ソフト開発者がプロ棋士と協力していることが知られたら、余計な波風が立つかもしれない。瀬田はそう考えて、この事実を公表してこなかった。それを覆してまで、自分に協力を求めてきた。何を意味するかは明白だ。
「瀬田は、予定どおりに対局を行いたいと考えているんですか」
「ええ、ええ、それはもう。この日のために、長い間準備してきたわけですから」
「播磨八段が出られないなら、そのまま対局は行わないってことは……。みんな仕方ないって納得してくれるでしょう」
「最初はその選択も考えていましたが、やはりこの盛り上がりをストップさせてしまうのは、惜しいですから。……お引き受けいただけないでしょうか? もちろん今ここでお返事してくれとは言いません。明日中であれば大丈夫です」
たったの一日しかないじゃないか。大熊はこみ上げてくる文句を懸命に飲み込んだ。
結局その場で返事をすることはできず、大熊は電話を終えた。力なく座り込み、家事を終えてのんびりしている八重子と目を合わせた。
「なんだか、えらいことになってる感じ?」
「えらいことだよ、本当に」
事情を簡潔に説明する。八重子はふんふん頷きながら熱いお茶を淹れてくれた。
NHK杯予選に敗退し、もう現役続行の望みはないとばかり思っていたが、残る棋戦で五連勝すれば、順位戦復帰規定を満たすことができるらしい。可能性は限りなく低いが、とにかく集中して臨まなければ――そう思っていた矢先のことだった。
思えば今回の電将戦ファイナルは、何かと話題に事欠かない。第一戦では勝ち目のなくなった将棋ソフト側が、終盤に王手ラッシュを繰り出した。将棋ソフトには人間のような「美しい投了図を作る」という概念はないのだが、中継を見ていたかなりの数のユーザーが、「棋譜を汚すな」などとネガティブなコメントを投稿した。すると「人間の常識をコンピューターに当てはめるな」と反対意見も多く出され、喧々諤々の議論が巻き起こった。大熊はプロとしての常識にどっぷり浸かる人生を送ってきたから、当初はあの王手ラッシュに眉をひそめたが、なるほどコンピューターにも言い分はあるかと、今では考えをあらためている。
続く第二戦では、さらに驚愕のハプニングがあった。プロ棋士が角不成の王手を放ったところ、ソフトが投了してしまった。先日SHAKEに発見されたバグが、そのソフトにもあったのだ。プロ棋士は自分の勝ち筋を読み切った上でその手を指したので、負けそうになったからプログラムのバグを突いて勝とうとしたのではない。それでも様々な意見が将棋界の内外で噴出している。
そしてこのたびの、播磨八段の欠場。ニッコ動の思惑は見えている。
数日後の第四戦の終局後、大々的に発表するつもりなのだ。播磨八段の悲劇と、それを上回るサプライズを。崖っぷちの棋士、大熊大吾の登場を――。
「やってみたらいいじゃない」
あまりにもあっさりと、妻は口にした。大熊は反応に困り、持ち上げた湯飲みをまたテーブルに置いた。
「二度と経験できないことでしょ? 人類の勝利がかかった戦いだなんて」
「そんな簡単に言うなよ……」
「簡単に言うわよ。もう一花、咲かせたいんでしょう? これが最後のチャンスよ」
以前の記事のことを言われて、大熊はドキッとした。そんなもの、もう自分は忘れかけていたのに。
「もうあなたは、勝つとか負けるとか、どうでもいいじゃない。もちろん勝てれば一番いいんだろうけど……一生懸命に戦えば、それだけでみんな喜んでくれる」
将棋のことをほとんど理解していない八重子だが、だからこそ時には思い切った言葉を投げかけてきた。
今も、ただ純粋に、夫が注目され、輝く姿を見たいと――。
「私はね、あの子に自慢できるエピソードを、ひとつでも多く増やしたいの。何年か経ったら、お父さんはこんなすごい戦いをしたのよって、言ってあげたい」
「愛菜――」
ベッドで眠る、まだ何もわからない娘。しかしいつしか、多くのことを学んでゆく。この自分の話も。
娘に誇れる父親になりたい。それが今の大熊の一番の望み。
ならば為すべきことは、ひとつではないのか。
「とりあえず、瀬田に電話してみるよ」
自室に移動してから、携帯でコールする。瀬田はすぐに出た。
「俺に電将戦に出てくれってのは、本当なのか」
「ああ、代役の人に断られた以上、SHAKEの相手が務まるのは君しかいないよ。……引き受けてくれるのか?」
もう迷いはしない。大熊は一呼吸置いてから告げた。
「そのつもりだ」
「よかった! じゃあこのことを明かしてもいいな」
「うん?」
「実はさ、君の出場を推薦したのは、俺じゃないんだ。伊達名人だよ」
二の句が継げなかった。
「電将トーナメントで優勝してから、あの人と知り合ってさ。ちょくちょく連絡は取っていた。播磨八段が出られなくなって、どうしようか相談してみたんだよ。そうしたら、大熊五段が出れば最高に盛り上がるって。……俺と君の関係までは、知らなかったようだけどさ。確かにそのとおりだろ?」
「……なーるほどな」
「そういうのは、嫌だったか?」
大熊は自信を込めて返答した。
「嫌じゃないよ」
本当にあの男は、徹底している。将棋界を盛り上げるためなら、なんだって利用するつもりなのだ。
だけど、利用するのはこちらも同じ。
絶対に訪れるはずのなかった、一生一度の大舞台。いつか娘に語るために、堂々と立たせてもらう。
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