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【女流アマ名人戦・予選】


 備えあれば憂いなし。依恋はこのことわざのありがたみを実感している。
 関東高校将棋リーグ戦の決勝戦で仕掛けられた筋違い角。確実な一歩得を目論むと同時に、強制的に振り飛車を封じる奇襲。プロ間ではほとんど指されていないというが、逆に言えばアマチュアでは遭遇する可能性が少なくないということだ。振り飛車党の依恋にとって、この対策を覚えること――居飛車でも指せるようになることは急務だった。
 単純に居飛車にも興味が沸いてきたこともあり、基礎を習得するのはスムーズだった。「相居飛車でも春張くんと互角に戦えそうですね」と紗津姫が言ってくれたときはすごく嬉しかった。
 そして今、申し合わせたように相手が筋違い角を仕掛けてきた。
 依恋に気負いはない。練習を思い出しながら、冷静に序盤中盤を進めていく。しかし緩手を見つければ、容赦なく咎めにいく。
 筋違い角は打った角を上手く扱えるか否かで勝敗が分かれる。だから着実な駒組みをして、その威力を発揮させない。すべては紗津姫の教えどおりに進行していた。
「ん、んん……!」
 きっとどこかの将棋部だろう。自分と同じ年頃の少女は唸りながら盤面を見つめる。妙手をひねり出したい、しかしどうしても出てこない。そんな表情だ。
 依恋はすでに二連勝し、決勝トーナメント出場を決めている。一方、この相手は一勝一敗。勝てば同じく予選通過だが、すでに終盤戦になり、だいぶ差がついている。故意にミスでもしないかぎり、逆転はあり得ない。
 だが、依恋に手心を加えるつもりは毛頭ない。
 将棋界にはこんな哲学がある。――自分にとっては消化試合でも、相手にとって大事な対局ならば、全力で勝ちに行かなければならない。
 そうした心がけがめぐりめぐって、幸運を呼び込むのだという。紗津姫流の言い方をすれば、将棋の神様に愛されるかどうか。
 依恋は人並みに神様を信じている。といっても一神教ではなく、八百万の神々だ。
 もし将棋の神様がいるなら、きっと恋愛の神様と友達に違いない。だから将棋で全力を尽くせば、恋愛でもいい進展があるかもしれない。
 理屈ではない。そう思い込むことで依恋の将棋は伸び伸びとする。
「負けました」
 詰めろをかけたところで、相手は投了した。

     ☆

「あら、予選通過したのね。おめでとう」
 初戦で対局した老婦人が声をかけてきた。どうも、と軽く応じておく。彼女は全敗で終わったようだ。
「やっぱり若い子には敵わないわねえ。あんなにあっさり負けるとは思わなかったわ。優勝目指して頑張ってね」
「ええ、ありがとうございます」
「まあ私は勝つことより、指導対局のほうが楽しみだったりするんだけどね。若いエキスをたっぷり吸収させてもらうわ。おほほほ」
 ほどなく、紗津姫と金子がやってきた。
「依恋ちゃん、どうでした?」
「全勝よ。自分で言うのもなんだけど、危なげない勝利だったわ。紗津姫さんは……聞くまでもないわよね。金子さんが一番心配なんだけど。例によって奇襲戦法ばかりで戦ったんでしょ?」
「ふっふっふ。それが上手くハマって、二勝一敗です! 奇襲の金子、健在なり!」
「みんな揃って予選通過ですね。幸先がいいです。春張くんにメールしてみてはどうですか?」
「そうね。あいつもヒマしてるだろうし」
 マナーモードにしていた携帯を取り出す。すると、来是からメールが入っていた。

『勝ってるか? 適当なタイミングで返事くれ』

 来是らしい雑な文面だった。依恋は顔をほころばせながら、三人とも予選通過した旨を返信する。
「これから先は、負けたら終わりのトーナメント。気合入れていくわよ」
「頑張ってるみたいだね」
 背後から甘い声が聞こえた。依恋は一瞬総毛立った。
「伊達先生! 大和先生も」
 紗津姫はさほど緊張した様子もなく、そのふたりに会釈する。
 伊達清司郎名人と大和雲雀女流名人。将棋界の二大スターの圧力に、さしもの依恋も唾を飲み込む。
 初対面の大和に、紗津姫は率先して挨拶した。
「はじめまして。神薙紗津姫と申します」
「ん、はじめまして。……ところで何センチあるの?」
「はい?」
「これ」
 小柄な大和が水平に視線を向ける先には、紗津姫の巨峰がそびえている。
「えっと、そんな、男性のいる前でそんなお話は」
「じゃあちょっとトイレに……」
 なぜか手をワキワキさせている。しかもポーカーフェイスで。
 え、こんな人だったの? 依恋は不思議なモノを見るような目になった。
「雲雀、そのへんにしておきなさい」
「むー」
 まるでダメな妹をたしなめる兄のようだった。
 そういえば、このふたりは同門ではなかっただろうか。連盟のサイトでチラッと見たのを依恋は覚えていた。
「大和先生も、この大会で優勝したことがあるんですよね。それも小学生のときに」
 紗津姫は機敏に話題を切り替える。たいした柔軟性だと依恋は感心するが……。
「もはや遠い昔の思い出……。私も歳を取った」
「先生はまだお若いですよ」
 これには紗津姫も当たり障りのないことを言うしかない。
 本当に何なのこの人! 伊達とはまた別方向で得体が知れなかった。
「じゃあ、健闘を祈るよ」
「あ、はい」
 紗津姫たちのもとを離れた伊達は、引き続き大和を連れて、別の参加者に話しかける。その人はどうにもならないくらい興奮しまくっていた。
「単純に参加者みんなに声かけしてるだけなんですね。また先輩に何か用なのかと」
「女性の将棋ファンとの距離を縮めようとしているんでしょうね。素敵です」
「ていうか、あれってキャラ作りしてるわけじゃないわよね……?」
「大和先生は……いわゆる天然、不思議ちゃんって評判なんですよ。私もちょっとビックリしました。でもおかげでリラックスできましたね」
 なんだか強引に話をまとめた感じである。将棋界は一癖も二癖もある人が多いと、依恋は理解しておくことにした。
 しばらくして、決勝トーナメントの組み合わせが発表された。
 自分の相手も気になるが、紗津姫の相手は……。
「あ、おねーさんとだ」
「よろしくね、未来ちゃん」
「絶対負けないよ!」
 城崎未来は一回りも年上の紗津姫に挑戦的な目を向ける。
 彼女が教わっている兄に、二度も勝ったことがある相手。いくら幼いとはいえ、実力差はわかっているだろう。だというのに負ける気で戦おうとはまったく思っていない。
 何事もそう。最初から負ける気ではいけない。子供でもわかることなのだ。
 御堂もまたライバル意識を隠さず、紗津姫に接近する。
「運がええわ。神薙さんと当たるのは決勝! 望みどおりの展開や」
「御堂さんの最初の相手は、確か学生女流名人戦を勝った人ですよね」
「ああ、最強の女子大生ってところや。燃えてきた!」
 そうして、決勝トーナメントの開始は近づいてきた。彩文将棋部の三人はあらためて勝利を誓い合い、それぞれの戦いに赴く。
 着席すると、対戦相手は意外な言葉をかけてきた。
「久しぶり、碧山さん」
「……どっかで会いました?」
「私、大蘭二年の真田。そっちは知らないよね。別に話もしなかったし。でもあなたはすごく目立ってたから。うちの男子たちもさ、みんなあなたたちのブログに夢中で」
「あら、それはどうも」
「にしても、あのとき交流戦のメンバーにも入っていなかったのに、あっという間に力をつけたのね。もしかして私も彩文に入ってれば、もっと上手くなれたのかなあ」
「そちら、部員数は彩文の比ではないでしょう? いつも切磋琢磨していそうだけど」
「うちは自分で強くなれってスタンスだからねえ。その弊害で教え上手な人がいないのよ。……ま、愚痴はこのへんにしとくか。ルックスじゃ負けるけど、将棋じゃ勝つわよ」
 両方勝つ。依恋はさらなる闘志を燃やした。