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依恋は朝から新鮮な気分だった。
いつだって側にいてほしい幼馴染が、今日は行動を共にしない。しかしそれでよしと気合を込めている自分がいる。
これから大事な戦いに臨むのだから、すぐ隣で見守ってほしいと思うのが当然かもしれないが、今日だけは彼は――男は余分なのだ。
女流アマ名人戦。女だけの熱き大会が間もなく始まる。
「おー、ここですか。結構すごいところでやるんですねえ」
金子が首をもたげる。目の前に将棋会館と同じかそれ以上ありそうな高さの建物がそびえている。
この多目的イベントホールが、女流アマ名人戦の会場だ。自分たちと同じ参加者であろう女性が、ちらほら集まってくるのが見える。
「緊張してきましたか?」
そう尋ねる紗津姫には、まるで緊張の色は見えない。ただ楽しみだと、女王は優雅に微笑んでいる。
「武者震いしてきたわ!」
「いやー、私はちょっとノミの心臓がバクバクしてきましたよ。揃って各クラス優勝できたらいいですけど、あんまり期待しないでくださいね」
「ふたりとも、楽しむのが第一ですよ。自分の指したい将棋で、頑張りましょう」
受付開始の午前十時になると、三人はホールに入った。会場の階へ移動し、参加費を払って受付を済ませる。紗津姫は段位者の名人戦クラス、依恋は3級以上のAクラス、金子は4級から8級までのBクラスだ。ちなみに中学生の初心者が参加するC1クラス、小学生の初心者が参加するC2クラスもある。
ホールの面積は将棋会館道場よりも広い。テーブルと卓上将棋盤がずらっと並ぶその光景は、関東高校将棋リーグ戦以上に壮観だった。
「神薙さん、こんにちは」
声をかけてきたのは今日の出演棋士のひとりである高遠女流四段。薄紅色のスーツがこの日にふさわしい華やかさを演出していた。
「先日はお世話になりました」
「そちらが後輩ね? あなた、よくブログに出てるわよね。実物はもっと可愛いじゃない」
「どういたしまして。でも可愛いだけじゃありませんわ」
「あら、頼もしい。ぜひいい将棋を見せてちょうだいね」
高遠が去ると、依恋は他の参加者を観察してみる。
談笑にふける人、詰将棋本を開いてウォーミングアップに余念がない人、黙々とスマホをいじっている人など、思い思いに開始までの時間を過ごしている。年齢層も小学生の子供から年配の婦人まで幅広い。
一方で依恋たちも、ちらほら視線を向けられる。ひそひそと囁かれる。アマ女王として、あるいはネットの有名人として、紗津姫は誰よりも強い存在感を放っていた。
そのとき、見知った顔を発見した。
「おねーさんたち、久しぶり!」
水玉リボンでオシャレした城崎未来が、とてとて駆け寄ってくる。紗津姫は可愛い妹に接するように破顔した。
「こんにちは、未来ちゃん」
「わたしも名人戦クラスだよ。おねーさんとは、一度勝負してみたかったんだ! わたしと当たるまで負けないでね」
「ええ、対局できるのを楽しみにしてるから」
大蘭高校将棋部のエースを兄に持つこの少女とは、およそ半年ぶりだ。その時点ですでに初段になっていたはずだから、今はさらに力をつけているだろう。
だとしても、紗津姫を上回っているとは考えづらい。やはり出水が出場しない今、紗津姫と肩を並べるような女性はいないのではないか。そう思っていると。
「ふふん、あんたと対戦したがっているのは他にもいるでー」
ずいっと、さっぱりした短髪の女性が目の前に立つ。自分たちよりいくらか年上だろう。ほっそりとスレンダーなスタイルで身長も高く、なんだか宝塚っぽかった。
「はじめまして、神薙紗津姫さん。うちは御堂涼(みどう・りょう)! 会えて嬉しいわ」
「御堂……あ、関西アマ女流名人戦で優勝した?」
「おー、知っててくれたんか」
毎年二月に関西将棋会館で行われるのが関西アマチュア女流名人戦。開催規模はここ東京の女流アマ名人戦と遜色なく、入賞者から幾人もの女流プロが生まれているのも同じだ。
依恋はわざわざ関西から参加する人がいるとは考えてもいなかった。みなさん強敵、紗津姫はそう言っていたが、こうした人の出現も予期してのものだったのだろう。
「にしても、どえらい乳やなー。将棋の駒でも詰まってるん?」
「かもしれませんね。ふふ」
「わお。女王の余裕!」
初対面だというのに、まるで十年来の友人のように親しげにしてくる。はっきり言って依恋はこの手の人は苦手だが、下手に口出ししないでおいた。
「うち、これが初めての東京遠征なんや。理由はふたつ。関西で一番になったからには東京でも一番になりたい。もうひとつは……名人に弟子入りしたい!」
「ということは、プロ志望なんですか?」
「このまえのニッコ生で言うてたやん。プロを目指している女の子がいたら、受け入れてもいいって! もう二十四歳で女の子かどうか微妙やけど。うち、もともとプロ志望やったんやけど、ぶっちゃけコレで割のいい仕事やないやろ?」
親指と人差し指で輪っかを作る御堂。紗津姫は何も答えず微笑するだけだ。
女流棋士の収入はどの程度なのか。依恋は気になってネットで調べてみたことがある。具体的なデータはどこにも載っていなかったが、タイトルホルダー級でもなければ、そういいものではないらしい……。
「だから親にも反対されてな、普通に就職した。将棋はのんびりアマチュアでやろうって思った。ついこの前までは。……憧れの伊達名人が師匠になってくれるかもって知って、無性にチャレンジしたくなったんや。女性への普及に力を入れるとも言うてた。名人ほどのお人が本腰入れてやってくれる。これって女流棋士が、夢のある仕事になる可能性があるってことやん?」
「ええ、だからこそ今日も伊達先生がいらっしゃるんだと思います」
紗津姫の言葉を合図にするように、ホールに小さなざわめきが走る。
その存在感は紗津姫を優に上回る。ただ歩くだけで、周囲に強烈なオーラを振りまくかのよう。眉目秀麗の名人、伊達清司郎がついに姿を見せた。
そして彼の傍らには、眼鏡をかけた小柄な女性がいる。童顔に加えて前髪をきっちりと揃えたおかっぱ頭が、子供のようなあどけなさを印象づける。
「あれが大和女流名人ですかー。ちっちゃいですねえ。お人形さんみたい!」
同じ眼鏡キャラとして親近感でも沸いているのか、金子は伊達よりも大和のほうに注目していた。百四十センチそこそこしかなさそうな身長のせいで、余計に子供っぽく見える。
「あれでうちと同い年とは信じられんわ。ともかくふたりの名人が揃い踏み! またとない絶景や」
「この大会って、いつもここまで豪華な棋士が来てくれるの?」
「去年はタイトルホルダーはいらしてませんでしたね。女性への普及に力を入れるっていうのが、本当だとわかります」
伊達たちプロ棋士はスタッフと歓談を始めている。マナーをわきまえている参加者たちは勝手に写真を撮ったりはしないが、もし許可されていたら一斉にシャッター音が響いていただろう。
「えへへ。どっちに指導対局してもらおうかな。わたしもね、プロになりたいんだ。アピールする絶好の機会だよ!」
未来が子供特有の純真な眼差しでスターを見つめている。午後からは指導対局会も催されるのである。
こんな小さな小学生から、一度は社会人スタートを切った大人まで、恵まれた生活を約束されているわけではない女流プロを目指している。
お金は二の次。大好きなことで生きていく。それが人間の最高の幸せだと依恋も疑わない。
夢見る人たちであふれるこの空間が、依恋はだんだん楽しくなってきた。早く勝負をしたくて仕方がなかった。
やがて、各クラスの対戦表が発表される。
まずは四名ずつのグループに分けて、二勝通過二敗失格の予選を行う。これを勝ち抜いた者が決勝トーナメントに進めるのである。
「いきなり予選で当たらんでよかったわ。あんたとはぜひ決勝でやりたいな」
「おねーさんと決勝で戦うのは、わたしだよ!」
御堂と未来はこの場を離れ、紗津姫が笑顔で見送る。
依恋とはクラスが違うから、きっと参考になるだろう彼女たちの戦いをじかに見ることはできない。もちろん早々に敗退して時間が空けば可能だが、そんなつもりはさらさらない。
「さあ、私たちもベストを尽くしましょうね」
紗津姫が後輩ふたりに手を伸ばす。依恋と金子はすぐに手を重ねる。あの夏の大会より男がふたりも足りないが、熱量は何ら変わらない。
「部室に三枚の賞状を持って帰るわよ!」
「あはは、プレッシャーかけないでください~」
開会の時刻が近づいてきた。
参加者たちは将棋盤という小さな、深遠な戦場の前に座る。
依恋の初戦の相手は、ご老人といって差し支えない白髪の婦人だった。皺の多い顔をニコニコさせて、のんびりした声で話しかけてくる。
「可愛いお嬢さんねえ。将棋歴はどれくらい?」
「今年の春からですけど」
「私は四十年よぉ。この大会にも、だいぶ昔から参加しててね。ちっとも勝てないんだけど、何だか今年はいけそうな気がするわ」
勝負事とはまるで縁のなさそうな温和な老婦人だが、同じAクラス。わずかでも油断すれば負ける。そう心に留め置いた。
あとは対局開始の号令を聞くのみ。マイクを持つ高遠女流に、全員の視線が集中する――。
「みなさん、準備はできましたでしょうか。歴史ある女流アマ名人戦も、近年は参加者数、将棋のレベルともに、とても充実してきています。昨年の名人戦クラスで優勝した出水摩子さんは、近々プロデビュー予定です。同じようにプロ入りする人がこの中から出てくるかもしれないと思うと、年甲斐もなくドキドキしてしまいます。プロを目指していなくても、楽しんで指したいという人も目に見えて増えています。ぜひみなさんには、勝ち負け以前に、楽しもうという気持ちを大事にしていただきたいと思います」
楽しむ。紗津姫の教えを受けている依恋にとっては、特別じゃない当たり前のこと。
だから普段どおり指せばいい。それだけで、きっと道は開ける。
さあ、学園祭に先駆けて、ひとつめの栄冠を。
「では――時間になりましたので、対局を開始してください」
「お願いします」
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