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「ここ、即詰みがあったんですよ。まず角を切って、こうしてこうして、十九手詰めですね」
「そんな長いのわからないわよー!」
「金子さんはここで歩を成り捨てておけば、底歩が打てるようになって安全勝ちできましたね」
「あー、そっか! うっかりしてました」
女流アマ名人戦が近づいてきた。紗津姫による二面指し指導対局は日々充実の一途を辿る。特に中盤の勝負どころ、終盤の寄せについては、うらやましいほど細かく指導していた。
来是は伊達名人の棋譜並べ、すでに三週目に入っている。棋譜を見なくても頭の中で再生できるようになるのが理想だと紗津姫は言う。その域には達せないようでは、彼女に追いつくことは叶わないのだろう。
「ふたりとも、家ではできるだけ詰将棋をしてくださいね。ギリギリの接戦になるほど、終盤力がものを言いますから」
「わかったわ。でも紗津姫さん、自分の練習が全然できてないけど大丈夫?」
「あは、こんなやりとり、アマ女王戦の前にもありましたねー。まあ防衛戦じゃないから気楽ですよね。それに出水さんも出ないし、これといったライバルはいない感じですか?」
「そんなことないですよ。みなさん強敵ですから」
紗津姫は謙遜するが、彼女が出場予定の名人戦クラスは、優勝者がアマ三段の免状を進呈される。つまり優勝争いをするほどの人でも、そのくらいの棋力だと想定されているわけだ。
六段の腕前を持つ紗津姫とは、単純計算で角落ちの手合いである。もちろん四段や五段の女性も少なからず出るだろうが、金子の言うとおり出水が出ない今年は、紗津姫が難なく優勝すると来是は予想している。彼女が負ける光景はまったく思い浮かばなかった。
「ところでミスコン、そろそろエントリー締め切っちゃうわよ。まだ出るかどうか悩んでいるの?」
「ええ……」
声のトーンを落とす紗津姫に、来是は棋譜並べの手を止める。
紗津姫からは決してミスコンの話題を出したことがない。いつも依恋から話を振られて、その都度返事を曖昧にするというパターンだった。
しかし今こそ、その流れを断ち切る。
「わかんないわねー。別に目立つのが嫌いってわけじゃないんでしょ? 名人と共演までしたんだし」
「将棋が関わっていれば、普及のためにできるだけのことをしたいです。でもミスコンは、そうではないですし……」
「先輩、ミスコンに出てください」
静かな、しかし強い意志を込めた言葉。
紗津姫はつぶらな瞳を大きく開いて、来是をまっすぐに見つめ返す。
「俺はミスコンの舞台で輝く先輩を見たいです」
去年のクイーンとしての務めだから。
全校生徒が期待しているから。
将棋ファンが注目してくれるから。
依恋と真剣勝負してもらいたいから。
――いろいろな理由を考えてきた。でも、どれもしっくりこなかった。
だから、真っ正直に自分の気持ちだけを伝える。
「俺、今まで先輩が将棋を指す姿に惹かれてきました。でも将棋と全然関係ない、先輩の綺麗な姿を見たいんです!」
「春張くん……」
「先輩は……すっごい美人だから、出るべきです! 今年は堂々とエントリーして、またクイーンになってください!」
美人を見たい。もっとも原始的な男の欲求。
それは自らの心の内をさらけだすこと。だから恥ずかしくて言えなかった。
でもこれから告白しようという相手に、この程度のことで恥ずかしがってどうするのか。
「そうですよ! 私みたいな普通の女子にとっても、先輩みたいな美人は憧れなんですって!」
金子が興奮気味にアシストに入れば、依恋は冷静に語りかける。
「あたしだって勝負したいって気持ちの他に、純粋に女の子としてすごく興味があるのよ。ミスコンって舞台で、紗津姫さんがどれだけ綺麗になれるのかって」
自らの美を誇示するためだけの行いは、紗津姫の美徳とは相容れないのかもしれない。そのことを尊重しないわけではない。
だが、どうしても見たいのだ。全校生徒が注目する中、スポットライトを浴びる神薙紗津姫を。
「またクイーンになって、って……春張くんは依恋ちゃんを応援しないんですか?」
迷うように、紗津姫は口にする。
それは彼女の最後の抵抗だったかもしれない。自分が出場すれば、依恋の学園クイーンになる夢が閉ざされるかもしれないと。
だが来是の答えは簡潔だった。
「綺麗なほうを応援します!」
「え……」
「でも出てくれないことには、どっちが綺麗なのかわからない! だから先輩!」
「ねえ紗津姫さん、今のって、あたしじゃなくて自分が勝つ可能性が高いからって、気を遣ったつもり?」
「いえ、そういうわけでは……」
「ふふ、少しでもそんな風に考えていたんなら、むしろ喜ばしいわ」
依恋は髪をかき上げて、悠然とクイーンを見据える。
「これはあたしの持論だけどね、女だったら『私はあの子より可愛い』って、常に自信を持つべきよ。それが女としての向上に繋がるんだわ。あたしだって、紗津姫さんに勝てるって信じてエントリーするのよ。そして……紗津姫さんが出ないでクイーンになれたとして、そんなの何の価値もないわ。不戦勝で名人になっちゃうみたいなもんよ」
「へー、そういうケースってあるんですか?」
「知らないわよ。で、周りはそれでも名人だって言ってくれるだろうけど、本人が納得できるわけないじゃない。だから、本当にあたしのためを思うんだったら、出てよ。負かされたとしても納得できるから。また女に磨きをかけることができるから」
負けても得るものがある。そのロジックは疑いなく好手だ。
しかし最後は、俺の熱意で決断させる――来是もまた平凡こその好手を放った。
「先輩がミスコンに出てくれたら、俺……もっと頑張れます!」
「頑張る……ですか?」
「学園祭が終わったら、角落ちで指せるようになります!」
「変なところで現実的ね、あんた。せめて香落ちとか言いなさいよ」
「俺はできないことは言わない男だ! だが、できると言ったことは確実にやる!」
「うわ、なんか名言っぽくなりましたね!」
別に茶化したつもりではなかった。本心をそのまま口にしただけだ。
しかし気がつけば、紗津姫は笑っていた。いつも来是が好きな、聖母のような柔和な笑み。
そして彼女は、期待どおりの答えを言葉にする。
「わかりました。春張くんがそんなにも頑張るって言うなら」
「ほ、本当ですか?」
「はい。春張くんの熱意に受けなしです」
言い方がめちゃくちゃ可愛かった。来是の高揚感は限界を振り切った。
「うおお! じゃあ気が変わらないうちにエントリーしに行ってください!」
「なら、春張くんもついてきてくれますか? 確かにエントリーしたって証人に」
「い、いや、そんなことで先輩を疑ったりしないですよ」
「いいじゃない。あたしも行くわ」
「私もご一緒しましょう! 全員が証人です!」
かくして部員一同校舎に戻り、学園祭実行委員会が設けられている教室に向かった。
入ると、書類とにらめっこしていた生徒たちが一斉に顔を上げる。
「あ、女王様! どうしたの」
紗津姫と同じ色のネクタイの女子が応対する。
「先輩の友達ですか?」
「ええ。去年、私に無断でミスコンにエントリーしたのはこの子なんですよ」
「実行副委員長の新谷でーす。それで用件は? まさかミスコンにエントリーしに……いや、違うわよね。もう無理に出ろとは言わないから、うん」
どうやら紗津姫のエントリーは半ばあきらめていたようだ。
彼女の仰天顔を想像すると、来是はたまらなく愉快になる。
「出ます」
「へ?」
新谷も他の委員も、目を丸くした。
差し込む夕陽の中、クイーンは一歩進み出て、告げる。
「二年B組・神薙紗津姫、ミスコンにエントリーします。今年は自分の意思で」
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