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☗4

「この状況だと、ここに銀を打つのがいいですね」
「え? タダで取られるじゃないですか」
「でもほら、詰めろが外れます。春張くんが攻める余裕ができるんです」
「おお……そんなテクニックが」
「攻めだけじゃなく、受けにおいても駒のタダ捨てっていうのがあるんですよ」
 昨日たっぷり遊んだ分を取り戻すように、合宿三日目は朝から猛練習だった。メンバーを次々と変えながら、対局と感想戦のセットをひたすら繰り返す。明日は早くにチェックアウトするため、実質、今日が最終日だ。とにかく集中して取り組む。
 紗津姫には飛香落ちで勝てたり勝てなかったりだが、今日のうちに飛車落ちまで昇格するのが目標だ。やってやれないことはない。そう気合を込める。
「ほー、この成るっていうのは気持ちいいな。チェスじゃめったにプロモーションできないからな」
「桂馬とか銀は、場合によっては成らないほうがいいこともあるのよ」
 約束どおり将棋をはじめることにした斉藤先生に、依恋が基礎から教えている。彼女も紗津姫に負けず劣らず指導が上手かった。余裕がないという理由で将棋に手をつけられなかった先生だが、何事もなく入り込んでいる。
「ま、私はほどほどでいいよ。お前たちの練習時間が削られてしまっては本末転倒だからな」
「じゃあ、次は来是、あたしとやろ」
「おう。いいかげんシーソーゲームから抜け出したいな」
 この合宿の対依恋戦は、まったくの五分。なおかつ、これまで互いに二勝以上引き離したことがない。見事なまでに白星黒星のバランスが拮抗していた。
 ふいに、昨夜の依恋を思い出す。
 好きな人がいる――幼い頃より大勢の男から想いを寄せられてきた彼女が、生まれて初めてそんな言葉を口にした。
 依恋とて女の子だ。当たり前のように恋をするだろう。だがその事実は、来是の胸に波紋を起こし続けている。
 誰より可愛い女の子を目指す依恋。そんな彼女が身も心もすべて捧げたいと思う相手とは――。
「あ、やば!」
 集中力の途切れが、不用意な手に繋がった。途端、恐ろしいスピードで依恋が攻撃してくる。一気に大駒を切ってからの、怒濤の寄せ。あっという間に来是の玉は受けなしに追い込まれてしまった。
「……負けました。くそ、なんでこんな手を」
「考え事してたんでしょ。あたしにどんな罰ゲームさせてやろうとか」
「違うっつーの……。そんなことすっかり忘れてたよ」
「あら意外。あたしに恥ずかしいことさせる気満々だと思ってたわ」
 小気味よく笑う依恋。とりあえずはこの話に乗って、頭のモヤモヤを取り除こうと思った。
「そういうお前は何か考えてるのかよ、罰ゲーム」
「ん……と、別に考えてなかったわ。どうしようかしら」
「それなら私の持ってきたBL小説を朗読するとか!」
「「誰がやるかーーー!」」
 見事にハモったところで、練習を再開する。次の相手は金子だ。
 棋力が下の相手でも油断せず、常に平常心で。さもなければ、さっきのようにつまらないミスで負けてしまう。これは練習だからいい。しかし肝心の大会であんなことになっては目も当てられない。
 女王に、神薙紗津姫に届くために、こんなところで足踏みしてはいられないのだ。
「今回はちょっと平手でやりませんか?」
「え? なんでまた」
「昨夜、ひそかに新しい奇襲戦法を教えてもらいまして。ぜひ餌食にさせていただこうかと」
 紗津姫のほうを見ると、穏やかな微笑みを向けられた。
「そんなに成功する自信があるのか?」
「受け方を知らない相手だったら、まず勝てるそうです。私が先手でいいですか?」
「ま、好きにしなよ」
 餌食にされてなるものかと、来是は腹に力を入れて金子の指し手を慎重に見極める……つもりだったが、三手目にして度肝を抜かれた。
「なんだこりゃ」
「おお、さっそくうろたえてますね?」

【図は▲7七桂まで】
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 いきなり桂を跳ねてきた。まさかこのまま単純に▲6五桂から▲5三桂不成と金の両取りを狙うつもりなのだろうか。
「ふふふ、どうしますか?」
「どうって言われてもな……」
 奇襲というからには罠が待っているはずだ。しかしどう考えても、この桂は簡単に捕縛できそうだ。来是はひとまず飛車先の歩を伸ばして攻撃態勢を整える。
 すると金子は、本当に▲6五桂と跳躍させた。来是はノータイムで△6二銀。5三の歩を守るための当然の応手。
 金子はニヤリと笑った。悠々と角交換を仕掛けてくる。
「むむ……?」
 それから数手進むと、雲行きが怪しくなってきた。
 金子は手持ちの角をすばやく投入し、飛車を応援に寄越す。来是が簡単に捕縛できると思っていた6五の桂も、結局取られることなく健在のまま。
 ほどなく来是は直感する。すでに取り返しがつかなくなっていることに。

【図は▲7八飛まで】
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 この局面から△6四金と角を取ったところで、▲7三歩成から一気に壊滅に陥ってしまう。これにて先手必勝、の図だ。
「……マジで?」
「これぞ必殺鬼殺し! 餌食にさせてもらいました!」
 鬼をも退治する威力、ゆえに鬼殺し。古来よりアマチュアに好まれたハメ手である。来是はすっかり呆然としてしまった。
「いや、まいった……。どこが悪かったんだ?」
「自分で考えたら? なんでもかんでも人に頼らないでさ」
 出水が詰将棋本を読みながら、視線を向けることなく辛辣な言葉を放つ。
 確かにそのとおりだ。こういうことを自力で乗り越えなければ、棋力の向上は望めない。
「じゃ、最初からやりましょうか」
「ああ、頼む」
 きっと効果的な受けがあるはずだ。頭を掻きむしりながら考えること数分――。
「そうか! こうすりゃいいんだ」
 先ほどは桂の跳躍を防ぐために△6二銀としていたが、代えて△6二金と上がる。先手は角交換から攻めを続けようとするが、いち早く△6三金と進めるのだ。

【参考図は△6三金まで】
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 もしこの局面で△6三銀だと、▲5三桂成とされてしまうが、金ならばその心配はない。先手はもはや手がなく、鬼殺しは逆に退治されることになるのだ。
 この受け方も当然紗津姫から教わっていた金子は、よくできましたと先生みたいなことを言って拍手する。
「しかし将棋って怖いですよねえ。落ち着いてやれば大丈夫と思っても、ちゃんと定跡を知らないと負けちゃうわけで」
「そうだな。精神面も大事だけど、結局は技術なんだよな」
 関根が言った。たとえば病気で調子が悪い紗津姫が気力充実の来是と対局したら? やはり紗津姫が勝ってしまうということだ。
 安定した精神力を持たなければならないのは確かだが、その前に高い技術。大会で勝つためにも。紗津姫の卒業までに、彼女の域に達するためにも――。
「楽しく指そうと思う気持ちも、忘れないでくださいね」
 いつの間にか背後に来ていた紗津姫が、優しく肩に手を置いた。
「技術も精神も大事です。でもそれをさらに超えたところに、将棋の神髄はあるはずですから」
「……はい」
 楽しく指す。何度も繰り返し聞いてきた紗津姫の信念。
 強さばかりを追い求める人にはならないでほしい、そう思ってくれたのかもしれない。
 だが、自らの心の焦りに、この先ずっと負けずにいられるだろうか。どんなにタイムリミットが迫っても、楽しんでいられるだろうか……。来是は隙あらば忍び込んでくる弱気を拭い去るのに懸命だった。