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 その後、駒の動きも簡単に復習して、いよいよ斉藤先生による指導対局。一番手は来是が名乗り出た。
「チェスの序盤はオープニングと言ってな。まず中央の勢力争いを制するのが大事なんだ」
「なるほど」
 ポーンを進め、ふたつのナイトを繰り出し、ビショップが移動できるように進路を開ける。
 中央の勢力争い、とりあえず形にはなったかなと思った瞬間。すいっと先生のナイトが跳躍して両取り――フォークがかかる。
「ふふ、うっかりするとこうなるわけだ」
 チェスのナイトは八方向に飛べる。そうとわかっていても、最初のうちはなかなか正確に応じられない。将棋の桂馬の動きに慣れてしまっている人にとっては、なおさらだった。
「むむ……」
 来是は将棋で鍛えた読みの力を発揮しようとするが、この白と黒の世界ではいまいち上手くいかない。ポンポンと駒を取られていく。
 斉藤先生は無駄に対局を引き延ばすことなく、容赦なくチェックメイトして終わらせるのだった。
「ダメだ、本当に将棋と全然違うな……」
「持ち駒がないから将棋に比べて戦略の幅が狭いかと思ったら、全然そんなことないわよね。クイーンとか、飛車プラス角の動きだし」
「依恋ちゃんの言うとおりですね。チェスも将棋と同じく、長い歴史の中ですごく洗練されたゲームです。そして確かに、盤面を注意深く見る目が養われますね。今度から部室にチェスセット、置いておきましょうか」
「おお、ぜひそうしてくれ」
 実際のところ、チェスをすることが将棋のためになるかどうかなど、はっきりとはわからない。
 しかし、紗津姫がそう言うからには、付き合ってみたい。
 なんといっても自由気ままなアマチュア。好きにやればいいのだ。
「紗津姫さん、あたしと対戦しよ。来是よりはきっと強いから」
「ええ、それでは」
 美少女同士が浴衣姿でチェス。またとない珍妙な、見目麗しい風景だった。
 依恋はすでに勝ちを確信しているかのように、大きな胸を張る。
「将棋じゃ歯が立たないけど、これならきっと負けないわよ!」
「どうぞお手柔らかに」
 ――ところが、決着はあっさりと訪れた。
「ちょっと、うそでしょ? なんでそんな強いのよ?」
 紗津姫のボロ勝ちだった。斉藤先生も目を丸くして、ひょっとして自分より強いんじゃないかとつぶやいている。
「神薙、チェスはあんまりやったことないんだよな?」
「ええ。でも駒の利きがどうなっているかさえ把握していれば、将棋と根本的な違いはないですし」
「さすが紗津姫ちゃんね。チェスでも女王、いえ、クイーンになれるわ!」
「……ふん! べ、別にいいもの。学園祭のクイーンにさえなれれば、他のことでいくら負けたって」
 精いっぱいの強がり。そこへ出水が冷や水をかける。
「無謀ね。紗津姫ちゃんに敵うわけないじゃない」
「な、なんですって?」
「まあまあ碧山さん落ち着いて。じゃ、次は私と部長でやりましょー」
「……外の空気吸ってくる」
 金子と関根の対局がはじまると同時に依恋は立ち上がり、足早に去ってしまった。
 よくあることだ。対局に負けると気分転換のために、依恋は部室を抜け出して一息入れる。そしてすぐに戻ってくる。
 しかし来是は、彼女の切なげな表情が気がかりだった。たぶん、すぐには戻ってこない――。
「すいません、俺も外に出てきます」
「そうですか。ごゆっくり」
 紗津姫はにこやかに送り出してくれた。
 玄関を出ると、周囲はすっかり夜闇に覆われていて、建物の放つ明かりだけが地面をほのかに照らしている。どこかで何かの虫の鳴き声が聞こえた。
「お……」
 見上げれば、降ってくるような星空だった。地元よりも空気が澄んでいるのだろう。ここまで綺麗な星空は、なかなかお目にかかったことはなかった。
 庭の中央で、依恋はひとり首をもたげていた。こちらの足音に気づくと、ゆっくり振り向く。
「あ、来是……」
「よう、いい眺めだな」
「……そうね。なんだか自分が小さく思える」
 依恋の隣に並んで、再び満天の星空を眺める。
「チェスでも先輩に勝てなかったのがショックだったか?」
「別に。だいたい、あたしが紗津姫さんに勝てるものも、たくさんあるわ。運動神経とか。あの人は胸が重すぎて絶対トロいし」
「そうだな。先輩が将棋なら、お前はチェスみたいなもんだ。どっちかが劣るなんてことはない。……人間、みんな違うんだ。優劣をつけるのは間違ってる。まったくそのとおりだよ」
「所詮それは建前よね。生きていく以上、何事にも順位がつくのよ。……学園祭のクイーンになれるかどうかだって」
「そりゃ、まあな……。けど、その順位がすべてじゃないだろ?」
 当たり障りのない一般論。こんな言葉で納得させられるなら苦労はない。
 と、依恋は上を向くのをやめて、来是の目を真正面から見据えた。
 周りが暗くても、彼女は恒星のように輝かしい可愛さを放っている。憂いを帯びた瞳が、来是の心を揺らした。
「あたしはクイーンになりたい。せめて女の子としての魅力で、紗津姫さんに勝ちたい。負けたくない」
「出水さんの言うことは気にするなよ。依恋が先輩に敵わないってことはないって」
「勝てる、とは言ってくれないわけ?」
「……選べないっての」
 そう、選べない。
 学園クイーンを決めるその日が来たら、自分はどちらに投票するのだろう。
 ちょっと前だったら、迷わず紗津姫に一票を投じたはず。だが、今は……。
「クイーンになりたい。そして自信をつけたい」
 聞いたことがないほど切実な声。
「クイーンになれたら……どういう自信に繋がるんだ?」
「あたし、好きな人がいるの」
 来是はそれを、異国の言葉のように聞いていた。
 頭を巡る血流が、急激に速度を増した。少し気が遠くなる。
「学園で一番の女の子になれたら、きっとその人も振り向いてくれる。……だから」
「……そう、か」
 正体不明の感情が沸いてくる。
 その好きな人というのは……。
「戻ろ。今度はあたしとチェスしよ」
 夜闇の中でもよくわかる紅潮した頬で依恋は言った。ああ、と頷くほかになかった。