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将棋の戦法を大別すると、飛車を初期位置に待機させる「居飛車」と、飛車を左側に移動させる「振り飛車」がある。
そして居飛車戦法の中でも、単純明快にして威力抜群、加えて初心者が取っつきやすいといわれる「棒銀」がある。飛車先の歩を進めていき、そのスペースから棒を伸ばすように銀も繰り出していくのだ。
「まずはこの棒銀を覚えてみましょうか」
部活が始まるとすぐ、来是は紗津姫の指導を仰ぐことになった。依恋はそんなことより来是と勝負したがっていたが、さすがに今日は譲らなかった。
棒銀のおおまかな仕組みは、昨夜に解説サイトで少しだけ見た。しかし実際に盤に向かって指すのでは、覚えるスピードが違ってくるはずだ。来是はいつにも増して気合いを入れた。
「まず、初手は飛車先を突く。棒銀はここからです」
言われたとおり、来是は▲2六歩と飛車の頭にある歩を進めた。
次からも紗津姫の指示どおりに駒を進めていく。今、ずんずんと繰り出された銀は、3五の地点で敵陣を睨んでいるところだ。
「ここで、2四歩と仕掛けてください」
「こうですか?」
「私がそれを同歩と取ります。そこでそちらも同銀と突入させると……」
「お、お、お?」
来是の銀が、今まさに相手陣を射程圏内に捉えている。歩を打って防ごうとしたところで、銀はおかまいなしにそれを取って一気に進入することになる。銀は金で取られるが、次に飛車が金を取りながら龍に成ることができるのだ。
【図は▲2四銀まで】
「防御……将棋では受けと言うんですが、ちゃんと受け方を知らないと、このとおりあっという間に壊滅状態になってしまうわけですね」
「すっげえわかりやすい!」
来是の頭の中で、RPGのレベルアップ音が鳴り響いた。
「今のは、基本パターンのひとつにすぎません。それに私が受けをサボったから成功しましたけど、普通はそうそう上手くはいきません。指しこなすにはそれなりの練習が必要です」
「いくらでも練習しますよ! 俺、この戦法が気に入りました。なんというか、一直線で男らしい」
「そう思えたら、しめたものですよ。人間、好きなことならいくらでも上達できるものですから」
来是の当面の目標は決まった。この棒銀を使いこなせるようになって、紗津姫に褒められることだ。
「ふーん、じゃああたしは振り飛車とかいうのにしようかな。来是と同じっていうのもシャクだしね」
「俺も振り飛車党なんだよ。それなら振り飛車の基本と棒銀の受け方を教えよう」
依恋の指導係は関根が買って出た。しかし来是はそちらには目もくれず、紗津姫とのマンツーマンに没頭した。
女王のたおやかな指先。一手指すごとに、駒音が響くたびに、盤面にいい香りが立ち上るようだ。
将棋を指す女性が、どれくらいいるのかは知らない。けれど、この先輩ほどに美しい対局姿を見せてくれる女性は、他にいないのではないだろうか。きっとプロの世界にすら……そんなことまで思ってしまう。
来是は時間を忘れて紗津姫の指導を受けた。一手一手が、自分を優しく正してくれる。来是は今、教えられ、導かれることの喜びを、まざまざと実感していた。
指導が終わると、依恋との早指し六連戦になった。来是は自信満々で望んだのだが……。
「ま、負けました……!」
「えっへへ。これで三勝三敗ね」
あろうことか、五分の星に持ち込まれてしまった。昨日は全勝していたというのに、来是は自分のふがいなさに歯ぎしりするしかなかった。
「やっぱり碧山さんは上達が早いな。うかうかしてられないぞ春張くん」
「来是ってば、すっごいつまらないミスをするんだもの。あたしが見逃すと思っていたの?」
「くっ……ちょっと間違えただけだ! 実力で負けたわけじゃない」
「確かに全局通して、春張くんが優勢でしたね。でも三敗のすべてが、そのちょっとした間違いが原因でした」
「うぐ……」
「将棋は些細なミスで、百パーセント勝ちというのが百パーセント負けに逆転してしまうこともある、恐いゲームです。そのことをよく覚えておいてください」
来是は神妙に頷いたが、うっかりミスさえしなければまだ実力は自分のほうが上! と自分を奮い立たせた。昔からいいように引っ張り回してくれたこの幼馴染を、唯一上回れるかもしれない競技を見つけられたのだ。断じて後れを取るわけにはいかなかった。
「それよりさあ、あんたとばかり指すのも、なんだかつまらないわね」
「お前なあ……。だったら先輩に駒落ちで教えてもらえよ」
「駒落ちって、なんかイヤ」
なぜイヤなのかは言わない依恋だったが、ハンデをつけてもらうという行為自体を嫌悪しているのだろうと来是は思った。そういう性格なのだ。
「よろしければ、今度の週末は外に指しに行きませんか?」
紗津姫が言った。そりゃいいなと関根も頷いている。
「外っていうと……」
「将棋の総本山、千駄ヶ谷の将棋会館です。毎日多くの将棋愛好家が集まって対局しているんですよ」
「そんなところがあるんですか」
「私も二週間に一度は通っています。きっといい経験になるはずですよ」
「なるほどね。私の美貌を学外にも知らしめるいい機会だわ」
いちいちツッコミを入れる気もなかった。
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