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翌朝、通学路で合流した依恋は、少し心配そうな顔になった。
「どうしたのよ、その顔。ひどいクマじゃない」
「夜遅くまでパソコンやってて……」
「ま、まさかいやらしい写真とかビデオとか見てたんじゃないでしょうね」
「違うって。将棋やってたんだよ」
日付が変わるまでフリーの将棋ソフトをプレイしていた。無料だからといってクオリティに問題はなく、操作性も軽快だった。ただ、一番弱い初級レベルでもまるで勝てなかったのはまいった。二枚落ちでようやく勝たせてもらえる程度だ。
「家でまでやることないじゃない」
「依恋はやってないのか。ふふん、サボってると差が開くばかりだぞ」
「あたしは他にもすることがあるんだから。あんたこそ将棋ばかりに夢中になってたら、勉強がボロボロになっちゃうわよ」
――それもそうだ。頭の悪い男なんて、先輩はたぶん嫌いだろう。単純な来是はそこまで考えて、ゲームはほどほどにしようと決めた。
「そういや将棋部に入ったってこと、おじさんとおばさんに言ったのか」
「言ったわよ。パパがね、お前ならすぐにトップに立てるって励ましてくれたわ」
この子にしてこの親あり。大企業取締役の依恋パパは、愛娘に持てる財と人脈を惜しみなく注ぎ込んで育てた結果、どんな方面でも才能を発揮できると、微塵も疑わないようになったのだ。
「プロの棋士を先生に呼ぼうかとも言われて。さすがにそこまでしなくていいって断ったけど」
「まったく金持ちはいいな。じゃあ今まで続けていたレッスンとかは? ピアノとかバイオリンとか」
「もうやめることにしたわ。飽きてきたところだしね」
「ふーん」
校門に到着する。偶然先輩と会わないかなーなどと考えていたが、そうそう上手い展開はなかった。
「でもさ、依恋が将棋部に入った理由が結局わからないんだよな。あれだけ興味ないとか言ってただろ?」
「別にいいじゃない」
「あ、そうか。神薙先輩からもっと胸が大きくなる秘訣を聞き出したいとか」
「アホーーー!」
大勢の生徒の見ている前で、フルスイングの鞄が頭に直撃した。
……そんなふたりは傍からはとても仲良しのように見えるらしく、さっそくクラス中で話題の種になっていた。
「春張くんは碧山さんとどういう関係なんだい?」
「近寄りがたいほど綺麗だけど、春張くんは普通に接しているわよね?」
「ま、まさか恋人同士……?」
「というよりは、お嬢様とお付きの使用人じゃない?」
当の依恋が席を外しているタイミングを見計らって、男子だけでなく女子からも好き勝手な疑問質問が寄せられる。
答えることは、ただひとつだった。
「ただの幼馴染だよ。何も特別な関係じゃないって」
おおおー、と盛大に驚かれる。
どうして幼馴染というだけで、そんなに驚かれなければならないのだろうか。
「幼馴染、なんと甘美な響きか! 俺も毎朝起こされたい!」
手前の席の浦辺という男が、やたらに力説している。そんなギャルゲーのようなことは、もちろん一度も経験したことはない。
「別に起こされたりはしてないって。たまに家に上がり込んでくるけど」
「それでも充分すぎるじゃないか! で、次は一緒の部活に入ったりするのか?」
「一応、もう入ってるよ。将棋部なんだけど」
すると、一同ポカーンとする。
「将棋部って変かな」
「ああいや、変だとは言わないけれどすごく珍しいな」
「だって、おじさんがやるゲームよね将棋って」
「っていうか、そんな部があるんだな」
「日曜の朝にやってるよね。じゅうびょ~、とか変な感じで時間を読み上げてるの」
世間一般の認識は、やはりそんなものらしい。
まだ入学したてだから、学園一の有名人である神薙紗津姫の存在を知らないのだろう。わざわざ言うこともないよなと、来是は笑みを噛み殺した。
そこへ依恋が戻ってくる。涼しい顔で着席して、次の授業の準備を始めた。
「依恋、休み時間になるたびどこかに行ってるけど、何をしてるんだ?」
「ただあちこち歩いているだけよ。あたしの存在を全校にアピールするためにね」
なるほど依恋らしい行動だった。新学期間もないが、あの美少女新入生は何者かと上級生の間でも噂が立っていることだろう。
「ついでに紗津姫さん以上の人がいるかと確かめていたけれどね、いなかったわ」
「だろうなあ」
依恋は依恋で、紗津姫に勝つという明快な目標を立てている。その勝負はとりあえず、秋にある学園祭でつくのだろう。まだまだ先の話なので、たいして関心はなかった。
午前の授業をそつなくこなして、昼休み。
来是は学食に足を運んだ。日本文化云々と標榜しているこの学校は、いかにも日本食というラインナップを取り揃えている。笹の葉に包んだおにぎりを出す学食があるとは、思いもよらなかった。普通にカレーとかスパゲッティがあったりもするが、学生のニーズにも応えなければいけないのだろう。
来是は天ぷら蕎麦を注文して、適当な席に座る。一口すすると、午後に向けての活力が充填される。
しっかり食べて精をつけて、将棋部を頑張らなければ。神薙先輩の愛情あふれる指導を受けて、そしてそして……!
「春張くん、ここの学食はどうですか?」
妄想は途中で打ち切られた。
一瞬、間抜けな顔になる。今しがた思いを膨らませていた女性が、おにぎりセットを持って微笑みかけていた。
「せ、先輩も学食ですか?」
「ええ。ここの食べ物、どれも好きですから」
当たり前のように隣の席に座って食べはじめる。
ほのかな米の匂いに混じって、艶のある黒髪から大人の香りもしてきた。いいシャンプーやリンスを使っているに違いなかった。
来是は冷静に今の自分の状況を考えてみた。
同じ部の後輩だから親睦を深めるために一緒に食べようと思っただけなのだろうが、誰もが認める「女王」と同じ席に座っている。
気がつけば、やはりこちらに注目の視線が集まっていた。軽々しく隣に座って何様だお前は、などとうらやむ者もいるかもしれない。嬉しいと同時に、妙な重圧も感じてしまった。
「どうしました? キョロキョロして」
「その、こっちを見る人が多いみたいで……。そりゃそうですよね。マスコミにも取り上げられたアマ女王で、しかも学園祭のクイーンでもあるんですから」
「学園祭は……友達が勝手にエントリーしてしまっただけなんです。私はそういうのは苦手で」
「そうなんですか?」
勝手にエントリーされたなら、辞退することもできたはずだ。そうしなかったのは頼まれたら断れない、優しい性格だからなのだろう。
「じゃあ今年はどうするんですか?」
「どうでしょう……。普通だったら連覇を目指すのでしょうけど」
依恋は紗津姫とクイーンの座をかけて勝負したがっているが、それは依恋の事情であり、紗津姫が出場を渋るなら止める義理もない。この話題は打ち切ることにした。
「と、ところでですね。昨日いろいろ調べたんです。将棋の戦法ってすごく多いんですね」
「ええ、多いですよ。将棋の戦法はあまりに多いので、すべてを指しこなすのはプロでも難しいほどです」
「俺みたいな初心者は、どうすればいいですか」
「初心者に限らず、私たちアマチュアはこれがいいなっていう戦法を直感的に決めて、ひたすら磨いていくのがいいと思います。あとでいろいろ教えてあげますよ」
将棋を語るときの紗津姫は、人生を謳歌している者だけが見せる明るさを持っていた。
彼女は恒星のように、自ら輝いている。その周りを、とても温かくさせてくれる。来是は首筋あたりがポカポカと火照ってきた。
「女王様! そちらの殿方はどなた?」
古風な言い回しで、女生徒が近寄ってきた。紗津姫の友人のようだ。
「将棋部の後輩なの。期待の新人よ」
「へー! あのマイナー部に新入部員が!」
「それより女王様はやめてって言ってるのに」
「いいじゃない。敬意を込めてそうお呼びしているのでございますことよ。君」
「は、はい?」
「せいぜい頑張れ。あははー」
意味を掴みかねていると、彼女はご機嫌そうに去っていった。
「女王様って……いつもああ呼ばれているんですか?」
そんな人もいるかなーとは思っていたが、本当にそう呼ばれているのを見ると、さらに高嶺の花だと感じてしまう。
「まあ、一部ですけどね」
別にそこまでイヤというわけではないのか、紗津姫は文句を漏らすでもなく、静かに食事を進めた。
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