☆
――どうしてこうなった?
「な、なんで? あんなにハンデあったのに?」
依恋の戸惑いの声に、ろくに返事する気も起きない。どうしてこうなったと何度も自問していた。
勝負はあっけなく終わっていた。ありとあらゆる駒で敵陣の突破を図ったが、ことごとく巧みな防御に阻まれた。
逆に歩と金と王しかない紗津姫の駒は悠々と躍動して、来是の歩から香車から桂馬から角飛車まで、軽々と捕縛してしまう。それらの奪った駒で容赦なく急所を攻め立てる。
そして今、来是の玉将が詰まされた――どこにも逃げ場がないところに追い込まれた。
確かに自分は駒の動きがわかる程度のド素人だ。上級者なら当然習得しているだろうテクニックなどまるで知らない。先の先を読むなんて器用なこともできない。
だが、それにしても、この強さはいったいなんだ?
「ま、まいりました……」
呆然と負けを宣言した。
これはさすがにハンデを与えすぎじゃないか。きっちり危なげなく勝ってやる。そう思っていたのに。
悔しい。悔しい。こんなに悔しいのは何年ぶりだろうか。勝負に負けることがこんなに悔しかったなんて……。
「ありがとうございました」
ぺこり、と礼をする紗津姫。
頭を上げた彼女は……とても爽やかな笑顔だった。
その瞬間、来是の心臓は震えた。
対局に勝てたから嬉しいのではない。対局を通じてとてもいい時間を過ごすことができたという……感謝の心。それが、自分に向けられているとわかったから。
「……ありがとうございました」
悔しさは、もう体のどこからも消えていた。自然と自分も笑顔になっていた。
「負けたのに何を笑ってるのよ」
依恋は憤懣やるかたなさそうだが、仕方がなかった。
この先輩は清々しいほど、強い。勝とうなどとは思ってはいけない。絶対に届かない高みにいて、畏敬の念をもって接するべき……そういう類の人なのだ。
「おいっすー」
陽気な声とともに、男子生徒が入室してきた。紗津姫が会釈する。
「こんにちは、関根さん」
「……んああ?」
関根という名の男子は、来是と依恋を見て大口を開けていた。緑のネクタイをしていることから三年生らしい。ツンツン尖らせた髪がトレードマークになっていた。
「も、もしかして新入部員? うっひょー!」
有無を言わさぬ勢いで、喜色満面の笑みを浮かべて、彼は来是と依恋に両手で握手してブンブン上下した。
「俺は部長の関根三吉(せきね・さんきち)だ。よろしく! 一緒に将棋部を盛り上げよう!」
「関根さん、まだ入部すると決まってはいませんよ」
「なんだ、そうなのか。で、何をやってたんだ?」
来是は一部始終を説明した。
「八枚落ちで負かされたか。駒の動きを知っているって程度のレベルじゃ、そんなもんだろうね」
「びっくりしました。あれだけの駒しかないのに、どう進もうとしても突破できないんですよ」
「それで碧山さん、将棋のよさをわかっていただけましたか?」
紗津姫が依恋に水を向ける。
「わかるわけないじゃない。あたしは別に将棋なんて興味はないんだし」
「そうですか……。でも気が向いたら、いつでも見学しに来てくださいね」
ちょっと外の空気を吸いに、と紗津姫は退室していった。
部屋の主を失ったように、部室全体が寂しくなってしまった。
「将棋部って、他にはいないんですか?」
「ああ、俺と神薙のふたりだけ。一コ上が三人いたんだけど卒業しちまって、下手すりゃ同好会に格下げになっちまう。四人未満だと、部として認められないんだよ。そうしたら部費も支給されないし、ちと困るんだが……」
目があからさまに「入部してくれ」と言っている。その視線を嫌うように、依恋が無理矢理話題を転換した。
「それよりあれほどの人が、どうしてこんな目立たない部活をしているの?」
「依恋、そりゃ失礼すぎるだろ」
「いいよいいよ。目立たない部ってのは本当だし」
あっけらかんと笑う関根。
「神薙みたいな美人なら、もっと華やかな部で活躍できるって言いたいんだな。俺も最初はそう思ってたけど、将棋部だからこそ、あいつは輝いているんだよ」
「……どういうことです?」
来是の問いに答えず、関根は棚に手を伸ばした。
引っ張り出されたのは、新聞のスクラップ帳だった。
その記事のひとつに、来是は吸い込まれた。
『神薙紗津姫さん(16) アマチュア女王戦優勝』
「将棋を覚えてわずか三年。去年のアマ女王に輝き、プロの女流棋士も破った経験がある天才美少女。このとおりマスコミにも取り上げられた。ついでに去年の学園祭では一年ながらクイーンの座を勝ち取っている」
「な……」
女王。クイーン。その単語に依恋は激しく反応していた。
「誇張ではなく、正真正銘の『女王』なんだよ。この学校で一番の有名人だ」
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