俺の棒銀と女王の穴熊【1】 Vol.5
☆
将棋部見学を終えて、来是は帰宅の途についた。
正午前の陽気な春の天気。新学期にふさわしい、気持ちのいい空気。
一歩前を、依恋が静かに進んでいる。
「……やっぱりあの人、あたしのライバルなのね。一年生で学園クイーンなんて、やるじゃない」
「まあ、頑張れよ」
依恋の目標に、来是はさほど関心はなかった。適当に応援するだけだ。
「でもすごいよな。本当に女王なんて! この世にさ、女王が正式称号の競技ってどれほどあるかな? あまりないだろ。女王様! なんて呼んでいる人もいるんだぜきっと」
「嬉しそうにしちゃって。あんなにコテンパンに負かされたくせに」
「ああ、負けた直後は悔しかったけど……また指したいって思ってるんだ。将棋って、すごく面白いんだな。新しい発見をした気分だ」
「まさか、入部するわけ?」
「そう思ってる」
即答されて、依恋は目を細めた。
「男磨きはどうしたのよ」
「将棋でできるよ」
「どうやって!」
「お前も見てただろ。礼に始まり礼に終わる。あれが日本の心じゃないか。ボロ負けして悔しかったのにさ、ありがとうございましたって言われて……すっごくいい気分になったんだ。負けたのに礼を言われるなんて、すごくないか? 俺も将棋をやっていれば、日本男児らしい礼儀が身につくかもしれない」
「……ふん、もっともらしいことを言って、どうせあのバカげた巨乳をずっと見ていたいとか思ったんでしょ。確かにサイズは負けるけど、あたしのほうが形は綺麗よ! 大ききゃいいってもんじゃないわ」
「いや、あの人の胸は形も極上に違いない」
すぱかーんと、また頭をはたかれた。
「あんたねえ! 女の子の前でよくそんな堂々と!」
顔を真っ赤にして怒鳴る依恋だが、来是は健やかな顔だった。
「お前にカッコつけてもしょうがないだろ」
「……それ、どういう意味よ」
「俺はあの人に惚れた」
「え……」
魂が抜けたように、依恋は立ち止まる。
来是が依恋を追い越して、彼女を振り向かず、広々とした空を仰ぐ。青春を謳歌する若者の、輝かしい顔だった。
「別に胸だけが目当てじゃないぞ。あの人の人間そのものに……惹かれたんだ。礼儀正しさ、穏やかな佇まい、そして、将棋を指す姿の美しさに」
「美しさ……」
「お前も可愛いけど、あの人は対極だよな。なんつーか、大和撫子? すっごく俺の好みだ。優しそうだし、何があっても笑顔でいてくれそうだし。ああ、俺は神薙先輩に惚れた! 初恋だ!」
「初……恋? な、なに、それ……。なに、それ……」
依恋はだんだんと小声になっていく。
「ん? おかしいか? ていうか神薙先輩ほどの人なら、言い寄る男がいくらでもいそうだろ。俺もその中のひとりになるってだけの話だ。でもどんなライバルがいても蹴散らしてみせる。ここはひとつ応援してくれ!」
「だ、だって……来是はあたしのことが……好きなんじゃ」
「え? なに?」
何を言っているのか聞き取れなかった。依恋はバツが悪そうに口をつぐむ。
「将棋を通じて男を磨きたいってのは本心だよ。でもそれ以上にさ、男は……いや、人は恋で成長するもんだろ! 俺は神薙先輩を追いかけたい。そして認められたい。将棋でも、男としても!」
ググッと握り拳に力を込める。依恋はますます困惑顔だ。
「わ、わけわかんない……」
「わかんない? じゃあ依恋も恋をしたらどうだ? お前なら男には事欠かないだろ」
「……」
「ああ、でもそんじょそこらの男じゃダメか。中学時代、何百通とラブレターが来たけど全部無視したって言ってたもんな」
「……」
「まあ、それ以前に性格が合うかどうかだよなー。依恋は上ばっかり見て、人に頭を下げたことないだろ。性格はどうでもいい、顔さえよければってくらいの男じゃないと、なかなか付き合おうとは……」
幼馴染だから、どんなことでも言えてしまう。
そう……ただの幼馴染だから。
「バ……」
「ん?」
「バカアアアアアアアアァァァアアアアアァァァアアアアアァァァアアアアアァァァアアアアアァァァアアアアアァァァア!」
兵器みたいな大音量を残して、依恋は駆け出していった。
あまりのことに、来是はよろけて尻もちをついてしまった。ズボンをはたきながら立ち上がる。もう依恋の姿は見えなくなっていた。
「な……なんだったんだ?」
長年一緒にいる幼馴染でも、まだわからないことはあるもんだ。来是はのんきにそう思うだけだった。
☆
初めての授業が終わった。
高校の勉強は中学よりずっと難しいだろうが、きっと大丈夫。目標があるならどんな困難も乗り越えていける。いささか大げさな心持ちで、来是はまっさきに将棋部へ向かった。
手には署名済みの入部届。今はまだ仮入部期間だが、そんなものはすっ飛ばして正式な部員になる気満々だった。
渡り廊下を駆け抜け、部室棟の将棋部の前に到着。
落ち着こうと努めながら、静かに扉をノックした。
「どうぞ」
扉を開けると……神薙紗津姫は昨日の再現のように、にこやかに盤の前に座っていた。窓から差し込む穏やかな陽光が、麗しい黒髪で反射している。
「あら、春張くん。今日も一局指しますか?」
昨夜も今日の授業中も、ずっと彼女の姿が頭の中にあった。あらためて正面から実物を見ると、心臓がドキドキしてしょうがない。
なんて美しい人なんだろう。おまけに優しそうで、柔らかそうで……女性らしさのすべてを身につけているような、理想的な人。
来是は猛烈に熱血していた。これが恋! 俺は今、男として生きていると実感している!
「先輩、俺……今日だけじゃなく、もっと指したいです。先輩に教わりたい」
「というと……」
「将棋部に入ります!」
すると、紗津姫はふくよかな胸の前でポンと手を打ち鳴らした。
「嬉しいです! 碧山さんも歓迎しますね」
え? と背後を振り向く。
そこに、整った眉を険しくさせた幼馴染がいた。
自分と同じ入部届を持って。
「依恋、お前……」
授業中は教師もたじろぐほどにずっとムスッとして、それに理由は不明だが目元を真っ赤にして、妙に虫の居所が悪そうだった。だから今日はまったく話しかけようとはしなかったし、依恋からも話しかけられることはなかったのだが、どうしたことなのか。
「あたしも……」
炎を吐き出すような激しい口調で、依恋は言った。
「あたしも将棋部に入る! 文句ある?」
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