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「こんにちは」
 彼女は立ち上がって、にこやかに会釈をする。両手は前に持ってきて、ホテルの従業員のような姿勢だ。自然にそうした行動が身についているんだろうと思わせた。
「は、はい、こんにちは」
「新入生ですね。入部希望者でしょうか?」
「え、いや――」
 ネクタイの色で判断したらしい。赤は一年で、青は二年、緑は三年である。
 この女生徒は、青のネクタイだ。一年上の先輩ということになる。
「将棋の経験はありますか?」
「こ、子供の頃にほんのちょっとだけ。駒の動かし方がわかる程度で」
「仮入部もできますので、よろしければ……少しでも見学していただければ嬉しいです。どうでしょうか?」
「ああ、えっと、はい!」
 断れるわけがないと来是は思った。
 なぜなら、美人のお願いだからだ。
 テレビのCMでしか見たことのない、油を引いたような麗しい黒髪。肩まで伸ばしたそのストレートヘアーは、風に揺れれば綺麗な音色を奏でそうだ。くっきりした瞳はどこまでも穏やかな光を湛えていて、唇も優しそうな桃色に色づいている。聖母を思わせる大人びた美貌は、たった一学年違うだけとは思えない。
 そして、めちゃくちゃおっぱい大きい。
 依恋も高校一年生の平均以上のサイズだが、この人はさらに二周りほどもボリュームがある。
 大きなおっぱいに惹かれない男はいない。その有史以来不変の真実とたぎって仕方のない己の心に、来是は素直に従うことにした。
「依恋、俺はちょっとこの人に教わるから」
 パイプ椅子に座った直後、後頭部を思いきりはたかれた。
「何すんだよ!」
「このスケベ! デレデレしちゃって」
 ギラギラな目つきの依恋。下心をたちどころに見抜かれて、来是はぐうの音も出ない。
「あなた、お名前は? あたしは碧山依恋よ。こっちのスケベは春張来是。なかなか愉快な名前でしょ」
「おい!」
 自分の名前のことはともかく、先輩に対する言葉遣いではない。
 だが、無礼な後輩に眉をひそめるでもなく、彼女は微笑みを絶やさないままだ。
「神薙紗津姫(かんなぎ・さつき)と申します。この将棋部の副部長です」
「ふうん……なんで将棋部なんかに?」
「なんでと言われましても、好きだからですよ」
「そりゃそうだ。依恋、いったい何を言いたいんだよ」
 またしても失礼なことに、依恋はビシッと紗津姫を指差し、声を張り上げた。
「どうせ見つかるわけはないって思っていたけど……認めざるを得ないわ。紗津姫先輩、あなたはあたしのライバルよ!」
「はあ?」
 来是はたまらず声を裏返らせた。
 そういえば依恋は、学園女王を目指す自分のライバルになり得る生徒がいるのかを見極めるために同行していたのだった。冷静に考えれば実にアホらしいのだが、本人はいたって真面目である。
 しかし、今まで依恋がそのように認定した女の子は皆無だった。
 向かうところ敵なしを誇った彼女が、生まれて初めて……自分と張り合える美少女の存在を知ったのだ。
 知ったところでどうするのかは、さっぱりわからないが。
「ライバルって何のでしょう?」
「……適当に聞き流してOKですよ」
 依恋は部室の中をゆっくりと見回している。ふう、と溜息などついて。
「そんなあなたが、将棋部なんかにいるのはもったいないわ。もっと輝ける場所もあるでしょうに?」
「ふふ。なんか、ということはないですよ」
「じゃあ、どういうこと?」
「いたってシンプルです。将棋は立派な日本文化のひとつなんですよ。入学式で言われませんでしたか? この学校は日本文化を大切にする心を養うべしと教えています。将棋ほどそれに適した競技はありません」
「ただのゲームでしょう? ゲームで何が学べるっていうの」
「そうですねえ……こればかりは実際に見て、やってみないことには。春張くん、対局しませんか。碧山さんに将棋の面白さを知ってもらいましょう」
「は、はい」
 もとより対局はお願いするつもりだった。来是は居住まいを正して、美貌の先輩と向かい合った。
「依恋、もう黙って見てろよ?」
「いいじゃない。どんなものか見せてもらおうじゃないの」
 紗津姫は盤の中央に寄せ集めた駒を並べ始めた。
 来是は駒の山の中から『玉』を見つけて自陣の最下列中央に置いた。将棋はチェスと同じく、キング――王が最重要のゲームだ。自分と相手の王を区別するために『王』と『玉』の二種類があるが、格下の者が玉を使うということは、父親から教わったのを覚えていた。
 並べる途中で、来是は気づいた。
 紗津姫の駒の並べ方は、整然としていた。来是がちょうどやっているように、駒の山から無造作に持ってきて所定の位置に滑らせるのではなく、ひとつひとつを丁寧につまみ上げて、何かの順番どおりにピシッと並べているのだ。
 来是は思わず手を止めて見とれていた。
 茶道や華道のように、将棋にもきちんとした作法がある。この人は、将棋を単なるボードゲームではなく、礼儀正しく取り組むべき道だと捉えているのではないか。
 綺麗だ――そう思うと同時に、偉いものを目の当たりにしているようなプレッシャーも感じてきた。
 互いに駒を並べ終わった。
「春張くん、ほとんど初心者なんですね?」
「ええ、そうです」
「わかりました」
 すると紗津姫はおもむろに、並べたばかりの駒を取り除いていく。
 飛車、角行、香車二枚、桂馬二枚、さらに銀将二枚の計八枚を駒入れに戻した。
「八枚落ちで、いかがでしょう」
「え……」
「何これ? そっちの駒、すごく少ないじゃない」

【図は開始局面】
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 将棋のことを何も知らない依恋にも、これでは勝負にならないと思えたらしい。紗津姫の駒は、王将の他は歩兵と金将だけだ。
 棋力に差がある者同士が対局する場合、手合割というシステムを用いる。上手の者が棋力の差に応じて駒を最初から取り除くのだ。一般的な対局では、最大でも六枚落ちまでとなっている。
 八枚落ちとなると、プロ棋士が超初心者相手に指導するときくらいにしかありえない。
 現役バリバリの将棋部員と、子供の頃に少しかじった程度の自分では実力差があって当たり前。だからハンデをつけられること自体には納得しているが……。
 いくらなんでもこれなら、こっちが楽勝できるのではないか? 依恋もそう考えたらしく発破をかけた。
「来是、これで負けたらすごくカッコ悪いわよ」
「わ、わかってるよ」
「では、お願いします」
「あ……お、お願いします」
 対局前には挨拶をする。これも父親に教わっていたが、忘れてしまっていた。それに紗津姫の声があまりに心地よく聞こえたので、ワンテンポ遅れてしまった。
 駒落ち戦ではハンデを負った上手側が、先に駒を進める。紗津姫は左側の金を持ち上げ、左斜め前に移動させた。
 パチンと、また素敵な音が響く。
 来是はこれまでとは別の意味で見とれていた。
 さっきの穏やかな雰囲気は薄れて、真剣に盤面に向かっているその表情に。まっすぐに駒を見つめて、微動だにしないその姿勢に。
 ――この人、カッコいい。