出水と別れ、地元の駅へと戻る。しかし足は自宅ではなく、彩文学園を通り過ぎて、彼の家へと向かった。太陽のせいではなく、ますます体が火照る。
ミニ合宿のために碧山家を訪れたことが何回もあるから、その隣の家がどんな風なのかは知っている。しかし、好きな人が住んでいる家なんだと認識するのは、これが初めてだった。
対局のときよりも緊張しながら、いよいよ目の前まで来た。
何の連絡もなく姿を見せたら、どんなに驚いてくれるだろう。彼の部屋にお邪魔することはできるのだろうか? 勝利の報告だけなら、玄関先で伝えればいい。でも、せっかくここまで来たのだから……。
紗津姫の思考は、玄関のドアが開く音で中断した。中から出てきたのは、歩くだけで綺麗な音がするような美少女だった。
「依恋ちゃん?」
「あれ、紗津姫さんじゃない」
のんびりと春張家の敷地を出る依恋。もう数え切れないほど繰り返してきた、ごく当たり前の動作だと見せつけるように。
「対局見てたわよ。まさにプロ顔負けの将棋だったんじゃない?」
「ありがとう。おかげさまで勝てました」
「で、どうしてこんなとこに?」
依恋の目は、何だか悪戯っぽかった。ライバルの思惑など、とうに察しているという感じだ。
「来是くんに、勝利の報告をしたいと思って」
「そんなの、メールなり電話なりですればいいのに?」
「ええ、無性にそうしたくなって」
「……積極的になってきたわね、紗津姫さん」
自信ありげな依恋の瞳を、紗津姫はまっすぐに見返す。
自分でもそう思う。彼は私の内面から変えてしまった――。
「私だって……もう受けの一手じゃいけないと思いますから」
「あは、そう来なくちゃ張り合いがないわ」
「それで、依恋ちゃんはどうして?」
「来是とお話でもしようって思っただけよ。でもあいつ、お昼食べたらさっさと出かけちゃったみたいでさ。最近は千駄ヶ谷じゃない将棋道場にも行ってるって言ってたし、どこかアマ強豪の集まるところで武者修行でもしてるんでしょ」
「そうだったんですか……。じゃあ家の中で何を?」
「ふふん、来是のお母さんがさ、掃除してたら子供の頃のあたしたちの写真が出てきたって言うから、見せてもらってたの」
彼女もまた子供に戻ったように、天真爛漫に笑う。
ふたりの幼き日――自分の存在しえない領域があることに、紗津姫の胸がかすかにさざ波立つ。
「あの頃の来是ってば、やっぱ冴えない感じなのよね。よく言えばおとなしいんだけど、男らしさに欠けるっていうか。あたしがリードしてやらなきゃみたいなオーラが満載なの」
「今は……全然違いますよね」
「そうね。それに関しちゃ、完全に紗津姫さんのおかげ。……ま、高校に入る前の来是だって、あたしは好きだったんだから。自分を変えたいって、あいつはずっと思ってた。その意思があるだけで、男の子って素敵じゃない? そう思うと、ますます昔の写真もいいなって。ずいぶん長々と見てたわ」
とうにわかっていたことだ。それでも。
どう頑張っても自分では得られない、十年の重み。……ああ、本当に重い。
「ん、どうしたの? ははーん、あたしがうらやましいとか? やっぱり幼馴染って最強よね」
いつだってこの子はストレート。そう痛感させられる。その美貌も、メリハリの利いたスタイルも、まぶしいくらいに高いプライドも、自分の武器を惜しげもなく見せつけてくる。グッとこない男子など、きっとどこにもいない。
じゃあ、私には何ができるだろう? 彼の将棋を鍛えること以外に……。
「ええ、正直に言って、依恋ちゃんがうらやましいです。私にはないものを、たくさん持っている」
「そんなの、あたしだって同じ。紗津姫さんは一目で来是のハートを奪ったのよ。あたしの十年間を、ひとっ飛びで越えちゃったんだから。どれだけショックを受けたかわかる? ……運命の赤い糸なんてものが本当にあるのかも。それはあたしじゃなくて、紗津姫さんと来是を結んでいるのかも。そう思ったことさえあったんだから」
運命。さっき出水が言っていたことを紗津姫は思い出した。
私と彼の間には、運命的な何かがあるのだろうか。
あってほしい。
ああそういえば――運命は勇者に微笑むっていう言葉もあったっけ。
だったら私は、いつだって勇者でいなければ。自分を信じて踏み込まなければ。
「なんていうか、今さら言い合うようなことでもないけどね。人間みんな違うんだから、いくら他人をうらやましいと思ってもしょうがないわ。あたしはもう、そんなステージにはいない。それだけは、はっきり言っておくわ」
「なら私も、そのステージに立つことにします」
「うん。これからも切磋琢磨していきましょ」
すぐ隣の自宅に消えていく依恋を見送って、紗津姫も家路を急いだ。
もっともっと、自分を変えていこう。変えていく。輝かしい未来のために。
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