1935年生まれの父から聞いた話です。
音西と書いて「おにし」と読ませる珍しい苗字があるそうです。
「おとにし」さんなら普通の読みですが、それを「おにし」と読ませる読み方に心当たりのある方はいらっしゃいますか。
おにし(音西)一族が長野の八ヶ岳の野辺山で林業を戦時中に営んでいたそ うです。
太平洋戦争末期は鉄不足、金属不足、資源が足りない中でした。
国策として、北海道民を長野に移住させて、長野の木の伐採量を上げようとしたそうです。
おにしさん一家も北海道からの移住組でした。
野辺山周辺は多くのカラ松があります。
高地であり飛行訓練もできます。
燃料不足の日本軍のために木炭などの燃料や木製グライダーを作るためだったのでしょう。連合国から石油を止められて日本は物資不足・燃料不足に追い込まれていたのです。
一方、1945年5月の名古屋大空襲では父の実家は全焼してしまいました。
父一家は北海道の親戚にあたる音西さん一家を野辺山に頼りにしました。
5月から10月までの短い間ではありましたが、祖父は木こりとしての生活を送りました。
音西さん一家は10人程度の大家族でわたしの祖父に木こりの仕事を教えてくれたそうです。
祖父は元々北海道の長万部の出身でした。
戦後18年経ってわたしが生まれたころ、祖父と父は名古屋の黒川で定食屋を営んでいましたが、敷地内には猿も鶏も豚も犬も猫も育てていました。
祖父は戦時中、アジアや満州に出兵しましたが、覚えたのは川釣りで、自分で食料を釣りでなんとかしなければ餓死してしまう状況でした。
釣りが上手くなり、戦後は時間があれば黒川で釣りをしていたそうです。
父は88才になりますが、「いまになって思えば、もっとおやじ(祖父)が好きな釣りに付き合ってあげればよかった」といまごろになって後悔しています。
元々、祖父の祖父は岡山で塩田を営んでいました。
明治政府の方針で、塩が自由市場価格となり、多くの塩田がつぶれます。
また、明治期はロシアからの北方の脅威に直面していました。
国防や食料自給のために北海道に大量に植民したのが明治のころでした。
西南戦争に敗れた旧士族が大量に北方への開拓民として送り込まれたころです。わたしの父方の祖先も岡山から北海道へ渡りました。だが、祖父は小学校を卒業した後は職を求めて北海道から名古屋へ移ります。
戦争で家が焼けて名古屋から野辺山へとひと夏の間だけ移住したのですが、秋の到来と共に、寒さから再び、焼け跡の名古屋に戻ることになります。
少年期に北国の長万部での暮らしが長かった祖父は昭和の金融恐慌や北海道を2年連続で襲った大飢饉に見舞われ、貧困の中、栄養不足などから両親や兄たちを亡くし孤児になります。
小学校を卒業すると集団就職で名古屋に出ていきました。
そこで京都出身の祖母が姉妹でやりくりしていた茶店で出会い結婚し、父が1935年に生まれたのです。
さて、戦争末期の八ヶ岳は軍需木材の供給地となり、小海線が材木を運ぶ貨物として活躍していました。野辺山には師団が置かれており、高原の立地を生かして飛行機乗りの訓練地だったのですが、もうすでにエンジンで飛ばせる飛行機などはなく、木でグライダーをつくり、グライダーで特攻しようとしていました。
つまり、火薬で木製のロケットを飛ばし、そのロケットに木製と紙製のグライダーをつけて、上空からB29にグライダーで撃墜するという「荒唐無稽」な軍部の作戦。それでも兵隊さんは毎日、草原でグライダーを飛ばす訓練をしていたそうです。
国民小学校に貨物電車で通う10歳の父。木材を燃料に走る馬力のない貨物列車が野辺山に上ることができず、子供たちは全員、列車を降りて坂では列車を押すことになります。
車掌に「花をとってきれくれ」と頼まれた父は草原に咲き誇る花を車掌さんに届けたことがあるそうです。
そして終戦を迎えます。
すぐに、軍部のある野辺山にも米軍が道なき道をジープに乗って占領にきます。
軍需がなくなったので、その後の父たちの木こりの生活は非常に厳しいもので、森の中で野宿に等しい生活。何時間も歩いて物々交換をするという生活。
10月になり寒すぎて死にそうになる。一家は名古屋へと戻ります。
この間の5か月の思い出が父には鮮烈な体験として刻まれたのです。
何もない貧しい生活の中で、見えてきたのは、なぜ、このような生活をしなければならないのかという素朴な疑問。つまり、貧困の問題。
なぜわれわれは貧困に直面しなければならないのかという疑問でした。
森の生活は、大自然に包まれたものではありますが、「お金」とはかけ離れたものでした。
軍部は終戦直後に解体され、野辺山にも5-6人の米国軍人を乗せたジープがやってきました。終戦のラジオ放送を学校で聞いた父は、なぜこのような山で物々交換の貧乏な暮らしをしなければならないのか不思議に思ったそうです。
日本軍の施設が負けたため、放置されていたので、父たちは無線機を軍から「持ち帰り」、それをラジオに改造して聞いていたそうです。
野辺山の厳しい生活の中で、音西さん一家の若い娘さんたちも、終戦直後、名古屋の黒川の山本屋食堂を頼ってきたそうです。父はそのとき小学生4―5年生でしたが、お姉ちゃんたちが名古屋に来たことは88才のいまも覚えているそうです。
が、その後、彼女たちがどこで何をしていたのかはいまとなってはわからないそうです。音西(おにし)と呼ぶ苗字で野辺山に関わりのある方をどなたかご存じなら教えてくださると嬉しいです。
いずれにしても、戦争はいけない。貧困はごめんだ、というのが父の思いです。
エネルギー源が木材しかなかった戦争末期の日本では、バスも汽車も木材を燃やして走っていました。今どきの「エコ」「バイオ燃料」といえるでしょうか。
国破れて山河在り。
いくら山河が残っても、戦争は経済を台無しにして、人命を大量に奪ってしまいます。
今年、88歳になった父を、野辺山に連れていくことができました。
この頃の父は自我の芽生えた野辺山の5か月間の少年時代を懐かしがるようになりました。
近年、野辺山には歴史資料館も出来ましたし、小海線の周囲は野菜畑が広がり、戦争中にあれほど重宝された木材の需要は消滅してしまいます。
全国に幹線道路が整備されて、トラックが大きく普及し、鉄道の貨物輸送の需要も激減しました。
国策は時代の要請であり、振り返れば、上手く行かない国策がほとんどです。
株式投資では「国策に売りなし」といいますが、この格言は、極めて短期的な視点に過ぎません。いくら国策でも、人道や経済合理性に欠けたものは失敗する定めにあります。家族の人間関係も企業の経営も、人の命を安く扱う主体は上手くいきません。
人間にとって大事なものは、みながずっと残そうと努力します。
しかし、そうでないものは徐々に変わっていきます。
咲き誇った高原の花もほとんどがいまは農地になってしまった。
八ヶ岳は当時のままそびえ立っています。
父は「戦争は絶対にいけない」と八ヶ岳をみながら、わたしにそうつぶやいたのです。
両親と妹夫婦で小海線に乗りました。
東京からの小学生の遠足の一団に遭遇。
彼らはタブレッドで小淵沢駅から野辺山駅までの車窓風景をずっと取り続けていました。
野辺山の喫茶店で、父は喫茶店のママさんと楽しそうに当時の思い出を語り、八ヶ岳のホテルではホテルマンと当時の思い出を語り、満足そうにしていました。ちょっとした親孝行になったのかなと思っています。
(NPO法人イノベーターズ・フォーラム理事 山本 潤)
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